明治37(1904)年の明日4月30日から5月1日にかけて日露戦争の開幕第1戦とも言うべき鴨緑江(上流の色が鴨の頭の濃緑に似ているためこう呼ばれている)の会戦が行われました。
日露戦争を始めるに当たり日本陸軍は朝鮮を兵站基地にするため明治37(1904)年2月12日に黒木為楨大将が率いる第1軍の第12師団を仁川から上陸させて朝鮮国王を威圧すると卓越した能力を見込まれて在朝鮮駐在武官に着任していた伊地知幸介少将(後の第3軍参謀長)が期待通りの外交力を発揮して2月23日に日本軍の駐留を認める日朝議定書の締結に成功しました(朝鮮の属国化を狙うロシアの在朝鮮駐在武官を巧妙に翻弄した)。すると第1軍は主力を3月29日に平譲の南の鎮南浦から上陸させて総員42000人が伊地知駐在武官が用意した宿営地で作戦準備を整え、4月28日に古くからを中朝の国境になっていた鴨緑江の中流・安東付近を渡って満洲に進出する作戦命令を発令しました。会戦は4月29日の午後2時から鴨緑江に橋を架け始め、敵の攻撃の中4月30日の深夜3時に完成させると第1軍の先鋒として第12師団が渡河を開始しました。
一方、ロシア軍は日本軍の満洲進出を阻止すべく24000人の兵力を対岸に配置していましたが日清戦争の鴨緑江の渡河作戦で日本軍が容易に突破した理由を「清国軍が弱体だったからだ」と舐め切っていたため(実際、清国軍は日本軍の猛攻に逃亡者が続出して総崩れになった)要所要所に分散配置していて防御態勢としては脆弱でした。
こうして深夜からの渡河作戦は夜明けと共に日露両軍の砲撃戦が始まりました。第1軍が参謀総長に送った報告によれば「5月1日の早朝にはロシア軍の砲兵陣地を制圧して渡河と同時に占領した」とあります。その後は午前7時50分から九連城のロシア軍陣地を攻撃して午後5時過ぎには首脳陣が逃亡してもぬけの殻になった司令部に入城しています。
この2日間の戦闘でロシア軍は1800人の死傷者を出したのに対して攻撃を受ける中での架橋作業を実施した日本軍は1000人で(土木作業や渡河操船中の工兵は敵弾に身体を晒すことになるため兵科別の戦死率が歩兵以上に高い)、それまでの同じアジア人の清国軍と同一視していた認識を改めざるを得なくなりました。実際、黒木大将の第1軍の満州侵攻に呼応する形で奥保鞏大将の第2軍が遼東半島の塩大墺に上陸して5月26日には半島の付け根の南山陣地を占領しています。
この後の満州における地上戦を見比べると黒木大将の第1軍、奥大将の第2軍、そして野津道貫大将の第4軍には大きな戦力差はなく、それでも各司令官の天性の軍才と強運、組織経営者としての参謀の活用によって勝機を引き寄せ、勇猛果敢な攻撃と艱難辛苦を耐え忍ぶ精神力によって圧倒的に不利な戦況を逆転させ続けたのに対して乃木希典愚将の第3軍だけは有能な伊地知少将を参謀長に迎えながらヨーロッパ式土木建築の粋とも言うべき旅順要塞に歩兵銃と銃剣で突撃を繰り返す愚の骨頂の正面攻撃で日露戦争における全戦死者55655人(戦傷病死者を除く)の4分の1に相当する15400人を殺しています。日本陸軍には「あと1人」の大将がいなかったのでしょうか。
- 2023/04/29(土) 15:20:01|
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