1840年の明日5月1日にイギリスで世界初の郵便切手「ペニー・ブラック」と「2ペンス・ブルー」が発行されました。
この2種類はどちらもヴィクトリア女王の彫像風の横顔で当時の造幣局の彫刻部長が市庁舎訪問を記念メして作成したメダルを原型にしていて台地が黒と青、肖像が金と銀の違いがあるだけでほぼ同じデザインです。ところがペニー・ブラックは台地が黒いため消印は赤色にしなければならず、この赤いインクが表面にニスなどを塗って加工すれば容易に洗い流して再使用することができたため1年後に赤茶色の台地の「ペニー・レッド」に変更されました。それでもペニー・ブラックは1年間に11回も印刷されていて最終版は通常の図版で印刷した枚数では不足したためペニー・レッド用の図版を黒で刷った2種類があり、12種類の切手が存在しています。
ペニー・ブラックは横12列、縦20行の240面で1シートでしたが、これは当時の通貨が12ペンスで1シリング=1行分、20シリングで1ポンド=1シート分だったことに由来します。このシートは初日に30万枚以上と爆発的に売れて31年後の明治4(1871)年に発売された日本初の竜紋切手が1年掛かって売れた枚数と同程度です。そのためペニー・ブラックは意外に残存数が多いので希少価値はあまり高くなく、むしろ売り上げが少なかった「2ペンス・ブルー」や珍しい赤インクの消印が押されている使用済みの方が高値で取引されているようです。
郵便制度は情報の伝達手段として古今東西で発達しましたが、中でも古代インカ帝国では文字を持たなくてもキープと言う結縄で情報を伝達し、南アメリカ大陸の山岳地帯を縦に貫く街道を整備してチャスキと呼ばれる飛脚を宿場ごとに置いてリレー方式で結び、1日当たり240キロを走ったと言われています。ただし、それは皇帝への情報伝達手段であって市民が利用できる郵便制度ではありませんでした。日本では江戸時代から飛脚制度が整備されて参勤制度で1年ごとに江戸に住む大名は飛脚を抱えて国元との情報交換に努め、藩士もその飛脚を利用することができました。庶民でも江戸と大阪の定期便を運営する飛脚問屋ができましたが、それ以外の地域は個人で依頼しなければならず宿泊費や食費を含む経費は全額負担しなければならず多くは各地から大坂や江戸へ産品を運ぶ御用商人に書簡や送金を依頼していました。一方、ヨーロッパではバチカンがヨーロッパ全土に広がった教区を支配するため教皇の命令を伝える使者が頻繁に往復するようになり、教区内で情報を周知する組織制度として住所と言う概念が確立すると商業の発展により商取引の情報伝達が頻繁になったことで依頼すれば配達される郵便制度に発展しました。
近代郵便は1516年にイタリアの名門一族がヨーロッパ全土に文書の送達組織を設立したことを契機としますが、あくまでも私企業による運営だったのをイギリスの郵政学者・ローランド・ヒルさんが郵政事業を国営化して大量の郵便物を一括配送することで必要経費を分割する均一料金制度を提唱して国民にも実現を待望する声が広まったため政府が採用して発行したのがペニー・ブラックと2ペイン・ブルーでした。
- 2023/04/30(日) 15:28:04|
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