昭和44(1969)年の明日5月4日は陸軍士官学校の同期で盟友の偉才・石原莞爾中将と同じく東條英機陸軍大将・総理大臣の狭量によって国家の危機に参画する機会を奪われた惜しむべき人材・平林盛人(もりと)中将の命日です。
平林中将は明治20(1887)年に松本市の北隣の長野県安曇野郡東穂高村で生まれました。陸軍幼年学校ではなく松本市内の旧制中学校を卒業して明治40(1907)年に陸軍士官学校に21期生として入営しました。同期には前述の石原莞爾中将の他にも昭和20(1945)年8月15日以降も侵攻を続けるソビエト連邦軍を樺太と千島列島で阻止した樋口季一郎中将や敗戦時の沖縄・宮古島の独立混成第60旅団長だった安藤忠一郎少将、樋口中将と同じく満洲のユダヤ人救済に尽力した安江仙弘大佐などの異色の逸材が揃っていました。その後、大正5(1916)年には陸軍大学校に31期生として入校しています。
陸軍大学校を修了後は陸軍参謀本部のアメリカを研究する米班に配属されて東京外国語学校に2年間公費入学して英語を学び、アメリカに出張して国力や軍事力を直に視察しました。帰国後は大阪の歩兵第8連隊長になっていますが、この時期、野僧の曾祖父・青山寛少将は大阪連隊区司令官でしたから面識があったかも知れません。
続いて京都の第16師団参謀長、満洲国軍政部最高顧問、憲兵司令官を歴任して昭和15(1940)年に中将で満洲の第17師団長になりましたが、在任中の昭和17(昭和42)年12月に突如として更迭されました。
実は平林中将は1年前の対米英戦争が始まった昭和16(1941)年12月29日に師団司令部の将校40人を集めて「現在の日本の戦力では米英軍相手に干戈(=戦)を交えても絶対に勝てる見込みはない。真珠湾の奇襲で寝込みを襲って戦果を上げたかも知れないが1年足らずで劣勢に追い込まれ、やがて敗戦に追い込まれるだろう」「装備劣勢の日本が近代戦を戦えないことは先のノモンハンで立証済みである」「泥沼化している中国戦線を未解決のまま米英軍を相手に戦う余力は今の日本にはない。負け戦と判っている戦争は絶対にやってはいけない」「東條は本来憲兵司令官を最後に予備役に編入されるべき人物で陸軍大臣、総理大臣の器ではない。この難局を処理する能力など持っていない」と戦勝気分の慢心を諌める訓示していて聞いた将校たちが自発的に緘口令を敷きましたが、やはり東條首相が陸軍内にも張り巡らしていたスパイ網が察知したようです。
予備役編入後は故郷に近い松本市の官選市長に就任しますがこちらも在任中の昭和20(1945)年3月に予備役中将として招集されて現在の長野市松代地区に大本営の地下壕の建設を担当する長野師管区司令官として敗戦を迎えました。
敗戦後は公職追放を受けますが電線を製造する会社の工場長として勤務し、追放解除後は穂高町教育委員を経て昭和29(1954)年に穂高町長に当選し、昭和37(1962)年まで2期在職しました。町長としては地元出身の彫刻家でロダンの直弟子である荻原守衛=碌山さんを記念する「碌山美術館」の建設を推進して昭和33(1958)年の開館時には初代館長に就任しています。
- 2023/05/03(水) 15:26:40|
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