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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月6日・「本当は平家だろう」・足利3代将軍・義満公の命日

応永15(1408)年の明日5月6日はアニメ「一休さん」に「将軍さま」として登場している足利義満公の命日です。51歳でした。ただし、義満公は応永元(1894)年には将軍職を息子・義持公に譲り、翌年には本人が出家していますから一休宗純禅師が6歳で得度を受けた応永12(1405)年には武家姿の義満公は存在しません。
義満公は延文3(1358)年に足利2代将軍・義詮(よしあきら)公が側室に産ませた3男でしたが正室が生んだ嫡男と同母兄の2男が夭折したため嫡子とされました。
当時は南北朝の勢力が拮抗していて有力武将たちも両者を秤にかけながら離合集散を繰り返していました。そんな10歳の時に父・義詮公が38歳の若さで病没したため管領の細川頼之さんの元で育てられることになりました。応安元(1368)年に細川さんを烏帽子親にして元服すると翌年には征夷大将軍の宣下を受けて正式に将軍職に就任し、当初は足利氏一門や有力守護職の担ぎやすい神輿として操られながら体験的に帝王学を修得していきました。ちなみに永和4(1378)年に邸宅を三条坊門から北小路室町に移し、そこを政庁にしたので室町幕府になったのです。また室町の政庁は城郭ではなく見事な庭園から「花の御所」と呼ばれていました。
義満公にとって最大の検案事項=悩みの種は南北朝の内乱でしたが、皇位の正統性を示す三種の神器は南朝側にあり情勢は極めて不利でした。そこで幕府の支配権に北朝が発する官位を権威として裏づけする方策によって南朝の影響力を弱め、自身も武家の頭領としての足利家と公家としての室町家の二本立ての地位を獲得するようになりました。しかし、これでは朝廷や公家の影響を排し、独立した武家の政権を確立した源頼朝公の遺志に背き、朝廷に取り入ることで公家と同化して武家として弱体化した平家の轍を踏むことになりました。実際、室町幕府は次第に武力ではなく権威による支配を常習化するようになり、8代将軍・義政公の時代に起きた応仁の乱は群雄割拠の戦国時代に発展しました。
それでも義満公は巧妙な交渉術と策謀によって南朝の公家を弄落して南朝の元中9=北朝の明徳3(1392)年に南朝4代の後亀山天皇が北朝6代の後小松天皇=一休パパに譲位する形で50年に渡った南北朝の内乱を終息させました。
次に義満公が着手したのが日明貿易ですが、これも平清盛さまが福原=現在の神戸市に遷都してまで推進した日宋貿易の再現でした。当時、明では沿岸部を荒らし回る日本人の海賊=倭寇に苦慮していて朝廷に対応を要請したのですが、南北朝の分裂状態で武力に裏づけされた統治権を有しているのは北朝だったためこちらを正統とすることになりました。すると義満公は西国の有力守護の大内氏を策謀で弱体化させるなど取り締まりを実行したことで明の朝廷の信任を得て、渡航許可としての勘合符を発行するなど日本の朝廷の頭越しに明に朝廷に接近して臣下としての「日本国国王」の称号を与えられました。
義満公は武士を服従させる時には源氏の筆頭を標榜していましたが、それ以外は完全に平家流を踏襲していて7歳で1年間の逃亡生活を送った播磨の白旗城から古都・福原の平清盛さんの墓所を訊ねて霊が憑依したのかも知れません。
月刊「宗教」講座・将軍様「一休さん」の将軍さま
  1. 2023/05/05(金) 14:49:50|
  2. 日記(暦)
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