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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月6日・加賀一宮・白山比咩神社の御饌(みにえ)祭り

5月6日は「加賀一宮」と呼ばれながら加賀国=石川県と越前国=福井県、飛騨国=岐阜県の国境=県境の交差地点の白山山頂(=社殿は石川県白山市三宮町)に鎮座する白山比咩(しらやまひめ)神社の祭神に海の幸を供える御饌(みにえ)祭りです。
古代から厚く積もった雪によって海上から見ても黒い影のような立山連峰の中で神々しく白く浮かび上がる白山は水源の神として農耕の信仰の対象になっていましたが、それが海に注ぐ霊水によって豊富な海の幸を生むと言う拡大解釈と沖に漕ぎ出す際の標(しるべ)になっていることから漁民にも広がり、平安時代初期の長和5(1016)年から山の神に海の幸を捧げる祭例が始まりました。
白山比咩神社は社伝によれば神話に近い応神天皇7年(神道的にはキリスト教暦紀元前91年でも現代歴史学的には3世紀末から4世紀前半)に白山の麓で海抜178メートルの船岡山に祭儀を行う式場=まつりのにわを設けたことが始まりとされています。式場は応神天皇28(何故かキリスト教暦297年まで跳ぶ)に手取川の十八講河原に移転しますが洪水で度々流失したため女帝・元正天皇の勅命で霊亀2(716)年に高台の安久濤の森に遷座して社殿が建立され、嘉祥元(848)年には45棟の社殿と堂塔が増設されたとあります。そうして平安時代に入ると延喜式神名帳に加賀国石川郡の10社の神々の座所の筆頭として掲載されました。また天長9(832)年には加賀、越前、美濃から山頂までの登山道が開かれて奥宮が創建されましたが、長寛元(1163)年の社伝「白山之記」によれば1の鳥居は樫高=現在の石川県白山市鶴来地区、2の鳥居は槻橋=白山市月橋地区、総門は北陸道の神符小河にあり、参拝者はここで白山を瑶拝して神牌・護符を受けたとあります。
平安時代中期になると密教の流入によって日本古来の神祇は本地である佛教の如来菩薩明王の権化(仮の姿)とする本地垂迹説が広まり、霊山は信仰の対象から密教・修験道の山岳修行の場になって白山にも密教行者や修験者が分け入るようになり、山中や麓には宿坊・祈願所として佛教寺院が建立され、平安末期になると白山比咩神社の加賀一宮としての地位が固まり、加賀一国の神々を代表する神事を行うようになる一方で能登(石川県北部)や越後(新潟県)などの北陸一帯に末社を持つようになりました。
しかし、室町時代後期になると宗祖・親鸞聖人の子孫として宗門の強奪を画策した蓮如妾人が浄土真宗高田派の門徒だった鎌倉時代からの領主・富樫氏を一向一揆によって滅ぼしたため密教・修験道の寺院への寄進は途絶え、神社と共倒れ寸前に陥ったのです。
それも江戸時代になって加賀国の領主になった前田家に正親町天皇から復興の綸旨が出たことで救われましたが、今度は加賀国と越前国、美濃国の間で領有権争いが頻発して寺社奉行の延喜式神名帳を根拠とする仲裁で加賀国の一宮として公認されました。
明治になると廃佛毀釋の凶風が霊場・白山にも吹き荒れ、1000年余りも修験道によって守られてきた山岳修行の聖地は出羽三山や津軽の岩木山と同様に中身のない儀式だけを行う神社になり果ててしまいました。現在、能登半島に罰(ばち)が当たっています。
  1. 2023/05/06(土) 13:31:00|
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