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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月8日・「斬首されても意識はある」・ラヴォアジエが刑死した。

フランス革命後の1794年の5月8日に貴族で科学者のアントワーヌ=ロラン・ド・ラヴォアジエさんがギロチンで首を落とされました。50歳でした。
ラヴォアジエさんは1743年にフランスのパリで裕福な弁護士の息子として生まれました。5歳で母親が病没したため自然観察を趣味にして育ち、1754年からマザラン学校=カレッジ・オブ・フォー・ネーションズで化学・植物学・天文学・数学を学びますが、父親の仕事を継ぐため1761年にパリ大学法学部に進学しました。
1763年に法学士号を取得すると1764年には弁護士試験に合格すると同時進行でパリ大学の植物学や天文学、化学などの講義を聴講して自然科学を学び、アフリカの喜望峰に出向いて天体を観測し、フランス全土の地質図を作成しました。1766年にはフランス科学アカデミーが募集した「都市の街路に最適な夜間照明法」と言う懸賞論文に応募して国王・ルイ15世から1等の金メダルを受賞して地質図を作成した時に採取した各地の飲料水の水質分析の論文によって科学アカデミーの会員になりました。
それでもラヴォアジエさんにとって科学の研究はあくまでも趣味であり、父親から受け継いだ資産を流用することは控えて研究費を稼ぐために副業として徴税請負人を始めました。しかし、徴税請負人は王家の贅沢な暮しに浪費される税金を市民から搾り取って苦しめるだけでなく税金に上乗せする不正収入で儲ける憎悪の対象でしたが、裕福だったラヴォアジエさんが実験費用に充てるには給与で十分でした。
そして1771年に徴税請負人の長官の娘・マリー・アンヌさんと結婚すると夫の手助けになろうと英語やラテン語、イタリア語を学習して海外の科学者への書簡や論文を翻訳し、化学と絵画を習得して実験記録の作図を担当し、ラヴォアジエさん没後に著書の「科学論集」を出版するなどサロンを開業するほど社交好きな点を除けば献身的な妻でした。
1772年頃に貴族の地位を金で購入し、1775年頃には火薬硝石公社の火薬管理監督官として工場内に自宅と実験室を設け住み始めました。ラヴォアジエさんの科学者としての業績は酸素の発見を含む燃焼学の研究でしたが、その大半はこの実験室で行われました。
ところが1789年にフランス革命が発生すると徴税請負人は王家に加担して市民を苦しめた罪悪人として一律に逮捕されて、個人の行状を調査することなく1日の審理で死刑判決を下し、即日ギロチンで執行されました。弁護人は科学者としての業績を訴えて死刑を回避しようとしましたが裁判官は「革命に科学は必要ない」と却下したようです。
この時、ラヴォアジエさんは極めて科学者らしい実験を提案したと言われています。それは「首が切断された後も人間に意識が働くことを証明するために可能な限り瞬きを続ける」と言うもので実際、ラヴォアジエさんの首は10秒から20秒間瞬きを続けたとされています。ところが死刑の執行が35分間で26人を斬首する過密な流れ作業だった上、提案された弟子の科学者が「ギロチンに接近して確認した」と言う記録が残っておらず、その後の著書に記していないことなどから単なる伝説扱いになってしまいました。それでもこの現象は世界各地の斬首刑や合戦、決闘などで目撃・証言されています。
  1. 2023/05/08(月) 15:33:12|
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