「モリヤ検察官の息子と秘書の安里さんの娘は夫婦なんでしょう。結婚させられませんよ」「しかし、日本の弁護士が婚姻手続きするって言っているんだから何か考えがあるんだろう」梢が雲島の淳之介に手配した戸籍謄本などの必要書類が届き、日本大使館が公布する書類を依頼すると河瀬1佐は夫婦で赴任している一般事務職員の妻の方に声をかけた。河瀬1佐としても日本から届く戦況詳報によれば新潟方面では双方に多数の捕虜が出ていて戦争法に基づく取り扱いに苦慮しているようなのでモリヤ検察官を一刻も早く帰国させなければならない。そのためには本人が絶対条件としている婚姻手続きを終えさせなければならないのだ。
「モリヤ検察官はご存知だとは思いますが、日本の民法735条では直系姻族の婚姻は禁止されています」河瀬1佐の見解に納得できなかった事務職員が私に電話をかけてきた。この生真面目さは陸上幕僚監部法務官室で一緒に勤務した岡田恵子事務官を思い出させるが虎の尾を踏むような愚挙は犯さなった。愚挙は後任の典型的なバブル入省組だった二村由美事務官の方が得意技だった。この人妻は50歳は過ぎていないのでバブル入省ではいないはずだ。
「私は日本大使館で婚姻手続きするんじゃない。単に必要書類の公布を申請しているだけだ。それを拒否するなら正当な理由がない公的職務放棄として日本で行政訴訟を起こすぞ」「はい、失礼しました。すぐに準備しますから取りに来て下さい」「妻に行かせるからよろしく頼む」「はい、お待ちしています」尾を踏まれた虎として吠えた私の言葉に事務職員は受話器を握ったまま震え上がったのが判るほど怯えた口調で返事をした。これを今の日本ではパワハラと言うらしいが喧嘩を売る相手を選ぶことを教えたのだから感謝してもらいたい。私も現役時代には沖縄や防府での曹侯苛めは別にして陸上自衛隊の幹部になってからは守山の副連隊長、久居の大隊長と何故か2佐に嫌われた。あれもこちらにそんな積もりがなくても向こうは喧嘩を売られた気分だったのかも知れない。少なくとも出る杭だったのは間違いない。
「予約はしてますか」「はい、でも書類が届くまで期日が決められなかったので1週間の猶予期間が確保できませんでした」書類が揃ったところで梢とスケベニンゲン=スへフェニンゲンの独立自体区役所に婚姻手続きに行った。オランダの婚姻手続きについては梢に準備させていたが宗教儀式を含む正式な結婚には1週間以上前に予約が必要だった。それでも梢には日本の民法第735条の時代錯誤な禁止事項は説明せずに「帰国までに愛するオランダで結婚したい」と情に訴えさせて了解を得ている。
「宗教はブッディズム(佛教)ですね」「少し宗旨が違います。日本の本土式佛教ではなく沖縄の海洋浄土・ニライカナイのミルクユガフ(弥勒世果報)を信仰しています」区役所の担当者は結婚式を催し、永遠の愛を誓う相手として宗教を確認したのだが私の説明は専門的で難解になった。本土の宗教学者は沖縄の信仰を見下したように「祖先崇拝」と表現するが、正しくは「祖先尊重」であって根底には本土の佛教とは別の流れで中国から伝播した弥勒如来への信仰がある。そもそも日本の本土の佛教は鑑真和上が伝えた釋尊以来の正式な戒律は奈良佛教で途絶え、天台宗や真言宗の平安佛教以降は伝教大師・最澄が創始した日本独自の大乗菩薩戒に移行したため海外では佛教と認められていない。実際、日本の僧侶は明治7年の太政官布告で解禁されて妻帯するようになったが佛教ではあり得ない破戒なのだ。
「それでは儀式は日本に帰ってからになりますね」「いいえ、海はニライカナイにつながっていますからオランダの海岸でミルクユガフに誓います」「執行者は」「本来はユタと言う霊能者に頼むので正式な儀礼は帰国後にします」私の説明では理解できなかったようで担当者は諦めたような顔で添付した書類の確認を始めた。
「この日本語の書類のオランダ語への翻訳は日本大使館が実施したんですね」「はい、大使館の認証印が押してあるでしょう」「確かに・・・結構です。受理します。おめでとうございます」担当者の宣言に立会人になってもらった宿舎のマンションの管理人夫婦と夜の散歩で会うベテランの警察官は満面の笑顔で拍手してくれた。この3人は私たちの夫婦としての生活を日常的に目撃していて最も深く理解してくれているから依頼したのだ。国際刑事裁判所検察部の関係者は交代して日が浅く公務以外のつき合いはなく、日本大使館の日本人は帰国後に婚姻が認められず行政訴訟を起こせば巻き込むことになるので避けた。
「母親の花嫁衣装を娘が引き継ぐって話は聞いたことがあるけど娘のウェディング・ドレスを母親が借りるなんて他にはないでしょうね」「うん、綺麗だよ。あかりは幼さが残っていて可愛かったけど君は本当に美しい」次の日曜日、私たちは警察官の妻を加えた4人の立会人と検察部の同僚、梢が親しくしている商店の小母ちゃんたちに囲まれながらスケベニンゲンの海岸でミルクユガフに夫婦の誓いを立てた。意外なことにモンゴル人のベルジディーン大佐は敬虔なチベット佛教徒で儀式の執行人を務めてくれた。そのため誓いのキスは入らなかった。残念。

イメージ画像
- 2023/05/09(火) 15:29:18|
- 夜の連続小説9
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0