「モリヤ検察官の日本での活躍を祈念して万歳三唱で見送りたいと思います」婚姻手続き=入籍とベルジディーン大佐の執行で結婚式を終えた私と梢は日本に襟首を掴まれて引き戻されるように帰国した。元々が家具つきのマンションで箪笥や本棚などの中味以外に荷物はないので全て船便で郵送し、オランダ航空の2人分の持ち込み限度の荷物を抱えて搭乗した。アムステルダム空港には国際刑事裁判所の同僚や在オランダ日本大使館の知人たちが集ってくれて、おまけに河瀬1佐の指示を受けた在外公館警備官の音頭で万歳三唱まで実施された。陸上自衛隊では転属や定年の見送りで万歳三唱するのは定番だが、在外公館警備官は1等海尉なので経験がないかも知れない。それでも自衛隊の号令の発声で音頭を取った。
「モリヤ検察カーン、バンザーイ」私は在外公館警備官の発生直前に隣で呆気にとれている梢に「頭を下げろ」と耳打ちした。本来、万歳三唱では祝福・激励を受ける者は頭を下げて感謝の意を表するものだが最近は選挙でも当選者が一緒に両手を上げるようになっている。その両手の掌を前に向けると「降伏」のホールド・アップになるため内側に向けなければならない。
それにしても万歳三唱で見送られると出征兵士のようで戦場になっている日本への出発には不吉な気がする。私の第7期一般空曹侯補学生の同期の中には入隊前日に地元の自治会の人たちに連れられて護国神社に参拝した後、公民館での激励会で初めての酒を飲まさせられて二日酔いだった奴が数人いた。奴らも「日の丸の小旗の万歳三唱で送られた」と言っていた。
「モリヤさんですね」「はい、ただいま到着しました」「こちらは秘書の安里さん」「いいえ、妻の梢です」成田空港には法務省の大臣官房人事課の一般事務職員が迎えに来ていた。考えてみれば日本の検察官は個人経営の弁護士とは違い国家公務員だ。しかも司法における職務権限は組織としての検察庁ではなく検察官個人に与えられているため人事審査は厳格で秘かに身元調査を受けていたはずだ。現在の国際刑事裁判所の高根智子判事は法務省からの転任なので裏情報も包み隠さず収集していたのだろう。しかし、検察官には検事総長、次席検事、検事長、検事、副検事の等級があり、私は検察官特別考試を受けていないので判事、検事、弁護士が1名ずつの小規模な裁判以外は副検事になる2級検察官だ。副検事の採用試験は警部以上として3年以上勤務した警察官にも受験資格が与えられるので警務幹部の2佐だった私にも資格はあるが国際刑事裁判所の次席検察官としての職務経験は日本の法務省人事には反映されない。このような自衛隊以上に雁字搦めの組織に身を置いたことを自覚すると「石垣島で弁護士事務所を開業した方が正解だった」と後悔の念が胸に過(よ)ぎった。
「閣下でしたか・・・」「久しぶり。今回は事実上の職務復帰ですね」私は各地方検察庁には配置されず新設された戦争犯罪裁判専任の最高検察庁付検察官として勤務することになった。先ず手始めは市ヶ谷地区の統合幕僚監部に赴いて今回の武力衝突の現状を確認することからだ。現在の統合幕僚長は私が定年退官の申告をした東京大学出身の前陸上幕僚長だが、それを知ったのは挨拶で対面した時なので土産も用意していなかった。統合幕僚長は就任と同日付で退官した佳織の申告も受けたらしいが離婚したことを聞いているようで特に触れなかった。
「この状況でどうして防衛出動を発令しないんですか」「やはりオランダでもそのように言われていますか」続いて運用1課で課長の1佐から説明を受けたが、私は現職ではないので防衛秘密を漏らすことはできず、とは言え戦争犯罪の検察業務には戦闘様相の詳細を知らなければならず、何よりも数年前まで自衛官だったので説明する側も困り切っていた。
「オランダに限らずヨーロッパではロシアが参戦した時点でマスコミが大きく取り上げ始めましたが、それまでは遠い極東で起こった武力衝突と言う感覚で単なる海外ニュースの紹介でした。それでも友人が毎月、日本の新聞を送ってくれていたので大まかな流れは知っています」私の説明に課長は安堵したようにうなずいたが、確かに毎月段ボール1個の古新聞を送り続けてくれた茶山元3佐の厚情には心から感謝しなければならない。
「一つ、個人的に気になっているのはロシア軍がシベリアに強制着陸させたオランダ航空321便の乗客の日本人の安危です。ロシア軍は人質として爆撃機や輸送機に同乗させると言っていましたが何か情報は入手していますか」「はい、ロシア軍は自衛隊が爆撃機や輸送機を撃墜すると後から合法的攻撃だったことを確認するために日本人が同乗していたと発表しました。実際、北海道で撃墜した輸送機の残骸からは日本人と思われる文民の遺骸を収容しています。現時点、日本人は生存していないと判断しています」課長の説明を聞いて私の脳裏にオランダ航空234便の機内とシベリアの基地で見かけた日本人の乗客たちの顔が断片的に浮かんだ。兵士たちから集団暴行を受けて憲兵隊に保護を要請した浅野望美も死んだとなると私個人としても使命感に火を点けて燃え立たせなければならない。
- 2023/05/10(水) 15:59:58|
- 夜の連続小説9
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