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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月14日・評価が両極端に分かれる元勲・大久保利通が暗殺された。

西南戦争の終結から8カ月後の明治11(1878)年の明日5月14日に鹿児島県人に訊いても評価が両極端に分かれる明治の元勲の代表(=内閣制度ができる前の最高権力者・初代内務卿に就任した)・大久保利通さんが暗殺されました。47歳でした。
大久保さんは文政13(1830)年に鹿児島城下の高麗町で下級藩士の御小姓与の長男として生まれ、幼い頃に西郷吉之助さんや大山巌元帥、山本権兵衛大将、東郷平八郎元帥と同じ加治屋町に転居しました。文武両道で鍛えられる郷中教育では体力が弱かったため武術は苦手でも学問は抜群で教育に当たる年長者を言い負かして「下級武士は示現流で奉公するのだ」と苦手な武術で教育的苛めに遭ったようです。
元服すると16歳で記録所に書役助として出仕しますが、嘉永3(1850)年に島津藩の内紛・お由羅騒動が起こって大久保さんの父親も喜界島に流罪になり、自身も連座して職を辞して謹慎になりました。それでも内紛が公儀に発覚して斉彬公が藩主になると嘉永6(1853)年に復職して御蔵役、安政4(1857)年には徒目付に昇格しました。
この頃から西郷吉之助さんと下級武士の精忠組を結成して斉彬公の藩政改革に参画しようとしますが、安政5(1858)年に斉彬公が父親の前藩主・斉興さんに毒殺されると妾の由羅が産んだ久光さまの息子が藩主になり、斉彬公の懐刀になっていた西郷さんは奄美大島に左遷されたため1人で精忠組を差配することになりました。
ここで大久保さんは藩政の実権が久光さまに移ったことを直視して鹿児島県人に嫌われる理由の1つである行動に出ます。久光さまが大の碁好きなのを利用するため相手をしている坊主に囲碁を習い、腕を上げたところで紹介を受けて擦り寄り、巧みに取り入って西郷さんと斉彬公と同様の関係になったのです。その後は久光さまを担ぎながら自己の政治信条を確立すると逆に久光さんや精忠組を利用するようになり、抜群の頭脳で常人には思いもつかない策謀を巡らした結果、幕府を廃絶して政権を奪い取ったのです。
明治新政府でも毛利藩士の桂小五郎とは比べ物にならない才覚を発揮して実務を取り仕切りましたが、同格の頭脳と見識を持つ鍋島藩士の江藤新平さんとは鋭く対立して、盟友の西郷さんと心中させる形で明治政府から排斥・放逐すると計算通りに不平士族が乱を起こしたので圧倒的な武力で鎮圧して禍根を断ったのですがこれで運命は決まりました。
この日、大久保さんは馬車で皇居に向かう途中で旧加賀藩士5人に襲撃されて惨殺されましたが、西郷さんの伝記の刊行を考えていて手紙を読み返していたと言われます。
大久保さんは残されている陰湿そうな肖像写真や政治的立ち回りから冷酷非情なイメージを抱かれがちですが実際は清廉潔白・誠実無垢な人物で、没後の大久保家には140円の貯金しか残っておらず逆に8000円もの借金がありました。この借金は予算がつかない事業を私費で実行し、事業経費の赤字を補填していた結果だったのでその事情を知っている貸し主たちは返金を求めなかったと伝わっています。
また究極のマイホーム・パパで家族の前では笑顔を絶やさず、子供たちは帰宅を待ち侘びて馬車が停まると一斉に駆け寄って帽子、鞄、杖から靴まで奪い取ったそうです。
  1. 2023/05/13(土) 15:15:46|
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