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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

続・振り向けばイエスタディ489

「あらッ、ニンジンさん」蓮床と呼ばれた朝山元3佐と一緒に庫裏の玄関に歩いて行くと住職の妻は私の顔を見て驚いたように声をかけた。梢と交際していた頃は中学時代に祖父の寺に下宿して小坊主生活は経験していたが得度は受けていなかったので僧名のニンジンとは名乗らなかった。それでも再会を果たし、オランダで一緒に暮らしている間はモリヤニンジンで通してきたので今では梢の耳にも馴染んでいるようだ。
「どうもお久しぶりです」「こちらは奥さんね」「はい、梢と申します」朝山元3佐はそのまま庫裏の裏手にある勝手口に向かったが私たちは玄関から入り、出迎えた住職の妻と対面した。住職の妻が畳に正座して三つ指を付いたのを見て日本に帰ったことを実感した。私がこの寺に通い始めた頃には佳織との別居生活が始まっていたから連れてきたことはない。その点、朝山元3佐はオランダやフィリピンで面識があるようなので説明が必要だ。
「帰国しましたのでご挨拶に伺いました。また福生市内のマンションに住むことになりました」「御免なさい、今、檀家さんが亡くなったって連絡が入って蓮床さんを呼んだのよ。枕経は蓮床さんに頼むと思うけど話が決まるまで待って下さい。どうぞ」住職の妻は私の口上は無視して一方的に内部事情を説明した。私は浄土宗の坊主の修行としてこの寺に通っていて住職もそのつもりで接していたが妻と檀家は納所(なっしょ=雇われ坊主)扱いだった。それにしても朝山元3佐は法事も担当する本当の納所として務めているらしい。そうなると読経や所作は素人坊主の私よりも上手いのかも知れない。そう言えば先ほど会った時も殺気=血の臭いを全く感じなかったのでプロの坊主になり切っていた。
「ご本尊にお参りさせて下さい」「はい、その後は座敷に来て下さい」住職の妻は私たちが履物を脱いで上がると奥の座敷に案内しようとしたので私は坊主の作法を申し出た。坊主に限らず寺に参った時には本堂に上がらなくても正面で合掌するのが佛教徒としての作法だ。それは他人の家を訪ねた時も同様で先ず佛檀に参らなければならない。土産は佛前に供えるものだ。
「それではいつものようにお願いします」「はい、了解しました」座敷に敷いてあった座布団に座り、住職の妻が出した茶菓子を頬張りながら熱い緑茶を飲んで待っているとかすかに住職と朝山元3佐の会話が聞こえてきた。現職自衛官だった私は自衛隊法第55条から第60条の6大義務と第61条から第64条の4大制限のうち第60条の「職務に専念する義務」と第63条の「他の職、又は事業の関与制限」で副業=副収入を得ることは許されず、寺院も宗教法人である以上、第62条の「私企業からの隔離」で正式に雇用されることもできなかった。そのため檀家での勤経は盂蘭盆会だけで布施は全て寺に納めて素麺や和菓子などの供物をもらっていた。一方、春と秋の彼岸は私自身が「本来は神道の行事だ」と認めていないこともあり年度末と演習準備の業務多忙を理由に関わらなかった。
「これはニンジンさん、おかえりなさい」朝山元3佐が出かけると襖を開けて住職が入ってきた。この寺は都下の割には堂宇(どうう=寺院の建物)が大きく私も清掃作務に励んでいた。住職の執務室の方丈(ほうじょう)から奥の座敷までは3つ部屋を通らなければならず和室だけに全て襖で仕切られているのだ。
「奥さんは初めてでしたね。はじめまして。大寿寺です」「モリヤ梢です。よろしくお願います」床の間の前に敷いてある座布団に正座した住職は私の左側に座っている梢に挨拶した。私と同世代の住職には「妻も幹部自衛官で遠隔地に赴任していて滅多に会えない」と説明しているが、梢が元幹部自衛官に見えるかは難しいところだ。ここは不妄語戒(嘘を禁ずる戒律)を犯す前に事実を申告することにした。
「実は前の妻は自衛隊を退役したのを機に私とは離婚してアメリカ国籍を取得して生まれ故郷のハワイに帰りました。今の妻は若い頃に交際していて私のオランダ赴任に秘書兼通訳として同行してくれたんです。オランダで籍を入れました」「そうですか。それはおめでとうございました。それもご縁、御佛のお導きでしょう。南無阿弥陀佛」住職が手をわせて念佛を呟くと梢も自然に合掌して念佛を唱えた。やはり私との生活で信仰心が身体に染まっているようだ。
「蓮床さんがこちらでお世話になっているとは知りませんでした」「蓮床さんはニンジンさんがウチで修行していたことを知って訪ねてきたんですよ。それで『出家したい』って言うからニンジンさんみたいな坊さんになればってウチで得度しました。増上寺で修行して今では正式な坊さんですよ」そこに妻が住職と私たちのお代わりの緑茶を運んで来て3人に配った。
「それにしてもニンジンさんは何かに憑かれたように働き通しでしたけど蓮床さんも暇にしてるのが罪みたいに仕事を探しています。それって自衛官の習い性なんですか」「自衛隊って命懸けの修行なんですよね」すると盆を抱えて退室しようとした住職の妻が代わって答えた。
  1. 2023/05/15(月) 15:15:18|
  2. 夜の連続小説9
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