5月10日に親子2代にわたってNHKの子供向け工作番組「できるかな」でお世話になったのっぽさん=高見映さんが2022年9月10日に亡くなっていたことが公表されました(本人の遺志で半年以上は伏せていたそうです)。88歳でした。
のっぽさんは昭和9(1934)年に京都太泰の役者長屋で当時はマキノ・プロダクションの俳優だった父親の6人兄弟の4番目として生まれ、4歳で現在の東京都墨田区向島に引っ越してここで育ちました。ところが戦争が始まって東京への空襲が繰り返され、食糧事情が悪化したため小学校の4年生で岐阜県羽島郡笠松町へ疎開して高校2年まで生活しました。高校2年で東京都下の高校に転校しますが、工場長を務めたほかはコメディアン、物真似、奇術師、俳優などで生計を立てていた父親の影響で芸人を志すようになり、尊敬するミュージカル・スターのフレッド・アステアの後を追い、当時としては日本人離れした181センチの長身を活かしてダンサーとして芸能活動を始め、キャバレーなどで出演する間に日劇ミュージックホールの舞台を踏むまでになりました。
ところがそこから失業状態が4年間続いて自死を考えるほど追い詰められましたが25歳でNHKの番組「不思議なパック」にバックダンサーとして出演したことでプロデューサーに気に入られ、新番組「音楽特急列車」の司会に抜擢されました。
その後も番組の構成や振り付け、さらに着ぐるみの人形劇「ブーフーウー」のオオカミ役などの仕事で呼ばれるようになり、32歳の昭和41(1966)年4月からの教育テレビ「なにしてあそぼう」にのっぽさんとして主演することになったのです。野僧も「なにしてあそうぼう」は保育園や3時からの再放送で見ましたが、のっぽさんはオーバーオールと帽子はハンチングで相棒はムウくんと言う小熊でした。
「なにしてあそぼう」は昭和45(1970)年3月で終わってしまって若い男女5人組が明るく工作する番組に替わりましたが、のっぽさんの独特の雰囲気を見慣れていた子供や母親には違和感があったようで昭和46(1971)年4月からはチューリップハットののっぽが復活したようですが、流石に小学4年の野僧は見ませんでした。
後にのっぽさんは「自分は役者としては器用でも手先は不器用で工作は苦手だった」と告白していましたが、不器用だったからこそ子供の稚拙な手作業に合った手本を見せられたのでしょう。その点が若い男女5人組には無理な仕事でした
実は野僧はのっぽさんが出演している映画を見たことがあります。それは昭和60(1985)年公開の伊丹十三作品「タンポポ」で子供と一緒にホテルに忍び込み、オムライスを作る浮浪者役でした。この時も台詞はありませんでしたが警備員が迫る中、美味しそうなオムライスを作って子供と逃げるリズミカルでコミカルな演技は絶妙した。結局、のっぽさんの声を聞いたのは愚息2が録画して見ていた1990年3月の最終回の「あーあ、喋っちゃった」で無言の封印を解いた挨拶でした。
のっぽさんは放送作家として「ひらけポンキッキ」の製作にも主導的立場で関わっていたそうなのでこちらでもお世話になっています。感謝を込めて心から冥福を祈ります。

のっぽさんではなくジミー・ペイジさん(イギリスのロック歌手)
- 2023/05/15(月) 15:17:24|
- 追悼・告別・永訣文
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