1838年の明日5月17日は名門貴族でありながらフランス革命からナポレオン失脚後までの外交を一手に執り仕切り、ヨーロッパの大半を敵に回して敗北した国家存亡の窮地にありながら領土を失わずに講和を成立させた名外交官・シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールさんの命日です。ただし、これだけ政治形態が激変しても国家を代表する立場を維持したことでフランスでは「変節漢」の代名詞にされている一方で国家の窮地を救った優れた外交手腕の比喩にもなっています。
ターラン=ペリコロールさんは1754年にブルボン王家を越える名門・タレーラン侯爵家の次男の伯爵家の長男としてパリ市内6区のガランシエル通りで生まれました。しかし、内反足の障害を持っていたため父の職務の連隊長を継ぐことができず、聖職者としての立身出世を命ぜられてパリの神学校とソルボンヌ大学で神学を学び、1775年に21歳でフランス北部のランス県の修道院長に就任して1779年には司祭になりました。しかし、聖職者は軍人になれない代わりの脇道に過ぎず「世俗では教皇よりも国王に実権を与えるべきだ」とする異端思想・ガリカ二スムの急先鋒として名を売りますが、それでも1788年には国王・ルイ16世によってブルゴーニュの司教に任命されました。
ところが1789年に「テニスコートの誓い」によって革命を主導することになる三身分会の第1身分のカソリック聖職者の代表に選ばれると(第2は貴族、第3はそれ以外の全階層の国民)教会の資産の国有化を提唱して反バチカンの姿勢を鮮明にしました。ちなみに世界共通の単位としてメートル法を採用させたのもターラン=ペリコロール司教だとされています。こうしてバスティーユ監獄の占領に始まったフランス革命が全土に広がると1790年に国民議会議長に選出されて司教を辞任しましたが、それを逆手に取って教皇から「反カソリック的言動」を糾弾されて破門されました。
ロベスピエールさんが率いるジャコバン派が権力を握った革命政権が「反革命」と断定した人々を大量に粛清し始めると1792年に外交特使としてイギリスに渡り、そのまま亡命してアメリカへ再渡航しました。そしてジャコバン派が失脚した1796年に帰国すると新政府の外務大臣に就任しますが1799年に辞任してナポレオン・ボナパルトさんの権力奪取の策謀に参加するとナポレオン政権でも外務大臣に再任されたのです。
こうして革命の波及を阻止すべく敵対していたオーストリアとイギリスとの講和に成功し、ナポレオンさんが皇帝に即位すると侍従長も兼務しますが、ヨーロッパ列強と共存・融和を指向するターラン=ペリコロ―ルさんとヨーロッパ全土の武力制覇を策謀するナポレオン皇帝では共同歩調は維持できず1807年に外務大臣を辞任しましたが1814年のロシア遠征の失敗によってナポレオン帝政が崩壊すると連合国側の要請でフランス代表としてウィーン会議に出席しました。この会議ではルイ18世の即位による王制復活を提案して革命後の復活王家の安定のための協力を要請することで賠償金や領土の割譲を封印して国家としての地位を保ちました。その後も最晩年まで目まぐるしく変わる国家体制の中で首相、イギリス大使などの要職を歴任しました。
- 2023/05/16(火) 21:44:47|
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