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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月21日・海軍切っての親英派・鳥巣玉樹中将の命日

昭和24(1949)年の明日5月21日は明治期にイギリス海軍を規範・手本として創設された帝国海軍が、やがて敵対関係に陥っていく中で知英派として英国協調を公言したため孤立した鳥巣(とす)玉樹中将の命日です。71歳でした。
鳥巣中将は偉才・江藤新平さんを擁護する旧藩士たちが起こした佐賀の乱から3年後の明治10(1877)年に旧佐賀城下=佐賀市で生まれました。旧制・佐賀中学校から九州北部の神童・優等生が集まる福岡県立尋常中学校・修猷館に転校・編入した後、日清戦争中に第25期生として海軍兵学校に入営しました。入校時の成績は36人中4番でした。同期には敗戦後、昭和の陛下から戦前の側近の政治家・軍人・官僚の中で最も信頼できた人物と評された山梨勝之進大将がいて終生の親友として鳥巣中将の没後には葬儀委員長を務めています。また日清戦争の特別課程のため2ヶ月早いだけの卒業になった1期上の24期には第1次世界大戦後の海軍軍縮条約を巡る海軍内の対立のガス抜きのため条約推進派の逸材(山梨大将も犠牲者)を予備役に編入する人事を犯した愛知県出身の大角峯生海軍大臣がいました。
明治30(1897)年に32人中3番の成績で卒業すると砲艦の初代・金剛の乗り組みになり、明治31(1898)年にイギリス領オーストラリアなどの南太平洋へ約5カ月間の遠洋航海に行っています。帰国後は戦艦・八島に転属し、明治33(1900)年にはイギリスで建造した戦艦・朝日の回航要員として初めてイギリスに出張しました。
この頃のイギリスはロシアのバルチック艦隊による北大西洋、黒海艦隊による地中海、さらに極東・太平洋艦隊による西太平洋の制海権の奪取を現実の脅威と考えていて、明治33(1900)年の義和団事件において北京の外国領事館を60日間守り抜いた柴五郎中佐以下の日本陸軍派遣守備隊の勇戦と厳正な規律が周知されたことで国是の「名誉ある孤立」を捨てて日本との同盟締結を模索していた時期なので極めて友好的な歓待を受けたはずです。
そうして明治35(1902)年に日英同盟が締結され、明治37(1904)年に日露戦争が始まると鳥巣中尉は特務艦・春日丸の航海長と分隊長として出征し、明治38(1905)年には連合艦隊の中核をなす第1艦隊の参謀として日本海海戦に参戦した後、屯田兵による樺太侵攻を支援するために編成された第4艦隊の参謀を務めました。
その後は長い平和な時代に入りますが、日本は日露戦争でロシア海軍の太平洋・バルチックの両艦隊に完全勝利したことで慢心する一方でアジア、太平洋に植民地を有する欧米列強からは警戒されるようになりました。
そんな時代の流れの中、鳥巣少佐は明治42(1909)年に海軍大学校を12人中2番の成績で終了してからはイギリスで建造した巡用戦艦の2代・金剛の回航要員、イギリスの新型巡洋戦艦に乗り込んでの交歓武官、在イギリス大使館の駐在武官などイギリスに偏った人事を受けたため海軍軍縮条約を巡って米英との対立が尖鋭化すると海軍内で孤立して予備役に編入されました。退役後は反米英主戦派の頭目でありながらイギリスかぶれだった伏見宮博恭元帥家の別当に採用されましたが本人には苦痛だったようです。
  1. 2023/05/19(金) 17:01:21|
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