「隊長、イギリスのプレスって名乗る外人の男女2人が新幹線の線路を歩い来ているんですが。プレスって何の会社ですかね」安川1尉以下の第13普通科連隊山岳レンジャー部隊=クレージー13は国道17号線が群馬県と新潟県の県境を形成する三国山脈=谷川連峰の最高峰で標高026メートルの仙ノ倉山と主峰で1977メートルの谷川岳の間を超えた湯沢町に潜伏しているが、ロシア軍が新潟に上陸して滝ヶ原駐屯地の富士普通科教導連隊が前方の魚沼市と南魚沼市に展開してからは関所の番人のような仕事になっていた。
谷川岳は関東地方屈指の岩登りの名所で昭和の頃には首都圏から多くの登山愛好者が押しかけて遭難事故も絶えなかった。中でも昭和35年9月23日にはそれまで登攀成功者が1人しかいなかった一ノ倉沢衝立岩で宙吊りになって死亡している2人が見つかって相馬原駐屯地の第12偵察隊の狙撃手が銃撃でザイルを切って落下させた遺骸を収容した事故が起きている。戦時下の今は流石に命知らずの登山家たちでも岩登りを楽しむ非常識な人間はいないが、東北地区太平洋沖地震の津波によって破壊された福島第1原子力発電所の放射能漏れで住民が揃って避難した地域で留守宅に残っている家電品などを略奪した被災地荒らしの模倣犯は少なくない。しかし、今回は毛色が違うようで関所の番人の長の陸曹は困っている顔が目に浮かぶような口調で報告してきた。
「プレスと言うのは報道関係者、要するにマスコミだ。パスポートと身分証明書、元へIDカードを確認しろ」安川1尉は名寄駐屯地の第3普通科連隊の第1次イラク派遣に参加した時、ジャーナリストへの対応については驚くほど詳細で具体的な教育を受けたが、そこで彼らが「プレス=印刷=新聞屋」と自称することを学んだ。そして実際に現地で接する外国人ジャーナリストたちの危険を恐れず真実を探し求める態度には感銘を受け、ところ構わず自衛隊の粗探しに励むだけの日本人のマスコミ関係者との違いを実感した。
「パスポートと身分証明書は英語ですから読めません。言葉も通じません」この陸曹も屈強の山岳レンジャーだが無線機の声は困り果ててきた。最近の日本の学校の英語教育では昔の読解一辺倒から実用性を重視して会話にも力を入れているが、外国人と接触する機会がない者にとっては発音や聴取を忘れてしまえば何も残らない。その点、読解力は不思議に頭に深く刻まれているようで横文字を見れば意味は判らなくても読むことぐらいはできる。
「写メで送れ」「はい」安川1尉の指示に陸曹は「助かった」と言う声で返事した。数分後、安川1尉の胸ポケットでスマートホンの着信音が鳴り、取り出して確認するとパスポートと身分証明書に2人の顔写真が届いていた。安川1尉も英語が得意な訳ではないが妻の聡美が英語教師の娘で母親から英才教育を受けて育ち、結婚後は名寄市内の観光ホテルのレストランで通訳を兼ねたウェイトレスとして働いていたので日常会話でも英語を使う機会が多く、今では子供たちに英語を教えているのを見ているから普通の隊員よりもレベルは高い。
「イギリス人で間違いなさそうだな。ブリティッシュ・ライフ社か・・・聞いたことがない新聞だがカードが古びてるから本物だろう」スマートホンの画面でパスポートと身分証明書の英文を確認し、添付してある顔写真と本人の画像を見比べて安川1尉は本物のジャーナリストと確信した。
「女性の方とスマホを代わってくれ」「女性の方ですか」「そうだ」安川1尉が指示すると陸曹は困惑したように念を押した。自衛隊に限らず用談するのは立場の序列が不明な時は男性を相手に選ぶのが一般的だ。年齢的にも男性の方が上のようなのでこちらの方が適任だろう。しかも傍受される危険性があるスマートホンを選んだ理由が判らない。
「ハロー、アイ・アム・ジャパン・アーミー・キャプテン(私は日本陸軍大尉だ)、ディス・ロード・ゲート・ガード・コマンダー(この道路警備の指揮官だ)」安川1尉はイラク派遣の時、現地のイギリス英語と学校で習ったアメリカ英語の違いを学習していたので無意識に道路を「ウェイ」ではなく「ロード」と表現していた。
「貴方たちはジャーナリストと言うことなので我々も可能な限りの協力を惜しみませんが、新潟県内では現在、侵略者ロシアと日本軍の戦闘が繰り広げられていて極めて危険な状態にあります。特に女性は・・・」「私もジャーナリストとしてスーダンやウクライナを取材していますから戦場では女性が生命だけでなく人間としての名誉を奪われる危険性が常態化していることは理解しています。それでもジャパン・ジエータイの祖国防衛の戦いの実像を世界に発信する使命のためには私個人の犠牲などは比較に値しません」女性は早口な英語で熱弁を奮ったため安川1尉の英語力を超えてしまった。スマートホンを使用したのは後で聡美に送って翻訳させるためだった。それでも趣旨は察することができた。女性記者は戦場で横行している性的凌辱も覚悟しているらしい。スマートホンの画像を見ると毅然とした表情をしていた。
「それでは権限を持つ上官の許可を求めますからそのまま待って下さい」本当は県境通過の許可権限は安川1尉に与えられているのだがあえて富士普通科教導連隊に通報した。これは自衛隊側限定の通行手形だった。残念ながら護符=お守りにはならない。

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- 2023/05/21(日) 15:09:09|
- 夜の連続小説9
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