「本当に長かった。ドーバー海峡トンネルに入ったのかと思ったよ」「あのトンネルは何キロあるんですか」安川1尉は新幹線側の県境監視所にジープを向かわせてトンネルの出口で拘束したイギリス人のプレス(マスコミ関係者)と名乗る2人を湯沢町の宿営地に連れてきた。
先ずパスポートと身分証明書を再確認すると身分証明書は多くの紛争地帯で使われたことを物語るようにビニール・コーテイングに折れ目が入り、汚れが染み込んでいた。続いて質疑応答に移ると2人は今は終点になっている高崎駅まで上越新幹線、そこから上越線の終点の水上駅まで来て人目につかない山間部で新幹線の線路に登ったと言う。したがって世界13位、日本4位の長さを持つ大清水トンネルを歩いて抜けて出口の監視所で見つかったようだ。
「大清水トンネルは22.2キロのはずだよ。それでも第1と第2の湯原トンネルと月夜野トンネルとシェルターでつながってるから31キロになるかな」「ドーバー海峡トンネルは全長50.5キロ、海底部は37.9キロだから勝ってるな」「それでも日本の青函トンネルは53.9キロだから負けてるわ」流石にマスコミ関係者の雑学の知識は自衛官とは比べ物にならない。対抗できるとすれば久居駐屯地の教育隊の精神教育で古今東西の軍事知識を習ったモリヤ中隊長くらいだ。
「その青函トンネルも2016年にスイスのコッタルド・ベース・トンネルの57キロに抜かれただろう」「その前にスイスのシンプロントン・トンネルの19.8キロは抜いたのにね」やはりこの2人もヨーロッパ至上主義に毒されているらしい。安川1尉としてはどこからか潜入して虚偽の報道を続ける日本人のフリー・ジャーナリストに対抗して真実の戦況を伝えることを期待して2人の越境を許可し、可能な範囲の支援を約束したのだが、あまり期待はできない。
「こちらはイギリスのブリティッシュ・ライフ紙のポール・マッキイトニー記者とオリビア・エルトンジョン記者です」「副連隊長の加藤2佐です。ようこそ新潟県へ、危険を冒して現地取材に臨む使命感に心から敬意を表します」安川1尉は簡単な質疑応答の後、南魚沼市の富士普通科教導連隊指揮所に連れて行って連隊首脳に引き合わせた。流石に普通科教導連隊にはアメリカ留学を経験している隊員が多く、キャンプ富士のアメリカ海兵隊と日常的に交流しているため本格的な発音には感心してしまうが相手はイギリス英語=クイーンズ・イングリッシュだ。流暢な分、かえって品格が落ちるかも知れない。
「それで君たちの取材目的は何だね」「日本が軍事侵略を受けているニュースはヨーロッパでもロシアが参戦したことで関心が高まっていますが、日本のマスコミがジエータイの劣勢ばかりを報じているので真実を取材したいと考えました」「ヨーロッパの主要国の軍はPKOなどでジエータイと一緒に働いた経験があって実力は熟知しています。仮にジエータイが日本のマスコミが言うとおりに失敗と敗北を続けているのなら原因を知りたいと思います」2人と連隊首脳の対話を1歩後ろで聞いている安川1尉は安堵して溜息をついた。
県境に配置されているクレージー13は食料や必要品の補給を受けつけているのでトラックの運転手が気を利かせて新聞を手渡してくれる。すると記事の大半は自衛隊の作戦の失敗と敗北の説明ばかりで見覚えがある東北地区太平洋沖地震の津波で破壊された市街地の写真が甚大な損害として流用されていた。最近は潜入したフリー・ジャーナリストの現地取材の記事も載るようになっているが文章は完全に虚偽で、ここまで圧勝しているロシア軍が本格進攻を開始しないのが不思議になる。日本人よりも軍事知識を有するヨーロッパ人であれば尚更だろう。
「分かりました。通過を許可します。ただし、貴方たちは覚悟の上でしょうが念のために補足すれば当方は安全を保障できません」「オフ・コース(勿論)」副連隊長の言葉に2人は声を揃えて返事した。そのエルトンジョン記者の毅然とした横顔を隊員たちは黙って見惚れていた。
「護身のために拳銃を1丁ずつ渡しましょう。これは自衛隊の物ではなく移動中に銃撃してきた在日中国人を射殺した時に押収した員数外です」「いいえ、結構です。プレス(報道関係者)は例え護身用でも武器を携帯することはできないのです。逆に戦場で武器ではなくカメラを持ち歩いていることがプレスのIDカードになります」連隊1科長の厚意の申し出をマッキイトニー記者は拒否した。戦場では望遠レンズを装着したカメラを火砲と誤認されて銃撃を受けて生命を落とすマスコミ関係者が少なくないが、彼らにとってはカメラこそが戦争の真実を暴く武器であって兵士が銃口を向けてくるのは応戦に過ぎない。
「それでは防弾チョッキとヘルメットを貸与しましょう。帰る時に検問所で歩哨に渡してもらえば結構です」「携帯食も持てるだけどうぞ」「住民が置いていったバイクや自転車も良いんじゃないですか」拒否されて無意識に後退さりした1科長の隣から別の科長たちが厚意の押し売りを始めた。戦場に派遣されて以来、生身の女性を見るのは久しぶりで、それが金髪の知性派美女となれば少年のように胸が高鳴っても仕方ない。しかし、それは新潟県内で待つロシア兵たちも同じで、むしろ世界各地の戦場で性野獣と化して多くの女性たちを凌辱してきた前科を思えば本人が「覚悟の上だ」と言っても男性として引き留めるべきだ。それでも2人は迷彩の防弾チョッキとヘルメットを着用してカゴに携帯食を詰め込んだ原付バイクで出発した。
- 2023/05/22(月) 15:36:40|
- 夜の連続小説9
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