昭和11(1936)年の明日5月23日は海軍軍人としての経験で実兄の日本民俗学の父・柳田国男先生とは同じで違う民俗学を探究した松岡静雄大佐の命日です。58歳でした。
松岡大佐は明治11(1878)年に兵庫県神東郡田原村=現在の神崎郡神崎町の儒者の家の7男として生まれました(柳田先生は6男です)。母親は出産間際、軍旗や軍艦旗のように夕日の周りに光線が伸びる夢を見たため「この子は軍人になりそうだ」と予言したそうですが松岡大佐の人生と学究を見ると海軍に在籍した11年間は必要な遠回りだったようです。
幼い頃から頭脳明晰で4歳の頃には百人一首を暗記して、尋常小学校に入学すると「習うことがない」と登校拒否、旧制・中学校も2か月中退して家で独学で漢文を勉強していましたが日清戦争が始まると海軍軍人を志すようになり、数学と物理学の本を買って受験勉強を始めて当時は東京帝国大学、陸軍士官学校と並ぶ難関校だった海軍兵学校25期に合格しました。同期には昭和の陛下の信頼が最も厚かった側近の山梨勝之進大将や真珠湾攻撃の50分後に最後通牒を手渡す最悪の役柄を演じることになった野村吉三郎大将、最後まで親英派を貫いた鳥巣玉樹中将などがいました。そんな海軍兵学校でも退屈だったようで座学では常に居眠りしていて、寝返りを打って机ごと倒れることもあったそうですが首席で卒業しています。
日清戦争後はドイツに発注・建造させた装甲巡洋艦・出雲の回航要員として出張するなど航海科士官として乗務して日露戦争・日本海海戦では3等巡洋艦・千代田の航海長として集中弾を浴びていた艦を卓越した操舵で救いました。少佐に昇任した明治40(1907)年には海軍兵学校の教官に着任しましたが、温厚なことで有名な校長の島村速雄少将(日露戦争初期の連合艦隊参謀長)に「頭が良いことを鼻にかけるな」と一喝されたそう。
明治42(1909)年からは同期の中では最初にオーストリア=ハンガリーの駐在武官として赴任し、大正3年8月15日に日本が第1次世界大戦に参戦すると中国の青島軍港から逃亡したドイツ艦隊を捕獲するため南太平洋諸島の植民地に派遣され、ここで陸戦隊を指揮して上陸し、守備隊長として占領したことで兄・柳田先生と同じ民俗学の探究心が芽生えたのです。
続いて臨時南洋群島防備隊参謀として残留することを命ぜられましたが体調不良で帰国することになり、海軍省文庫主管として第1次世界大戦史の編纂に当たりながら研究に着手すると
大正4(1915)年に「椰子栽培法」と「送仮字法」、大正6(1917)年に「南溟の秘密」、大正7(1918)年に「和蘭語文典(オランダの植民地だったニューギニアの言語も網羅していた)」を出版しながら大佐で予備役編入を希望し、「蘭和辞典(同前)」を出版した大正10(1921)年に41歳で退役しました。
退役後は現在の神奈川県藤沢市鵠沼に転居して「神楽舎(ささるのや)」を結び、立て続けに「太平洋民族誌」「日本言語学」「チョモロゴ語の研究」「日本古俗史」「播磨風土記物語」「ミクロネシア民族誌」「民俗学から見た東歌と防人歌」「常陸風土記物語」などの言語学と民俗学の学術書を出版する一方でニューギニアの近代化を進めるためにオランダとの共同事業に着手しましたが力尽きてしまいました。
- 2023/05/22(月) 15:38:03|
- 日記(暦)
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0