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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

5月25日・日露地上戦の2回戦・金州南山の戦いが始まった。

明治37(1904)年の明日5月25日から26日に日露戦争の地上戦の2回戦として遼東半島に上陸した第2軍による金州の南山陣地の攻城戦が行われました。
奥保鞏大将が率いる第2軍は4月30日から5月1日の渡河戦で朝鮮と満州の国境・鴨緑江を突破して北上する黒木為楨大将の第1軍と満州南部のロシア軍を挟撃するため5月5日に遼東半島の西側に上陸して準備を整えると5月15日にロシア軍が構築していた旅順要塞を素通りして遼東半島の幅が狭くなっている付け根の金州に向かい、5月25日にロシア軍が立て籠もる金州城と南山陣地の攻撃を開始しました。
南山陣地は大量のコンクリートで固めた構造物やトンネルによる連絡路などヨーロッパの最新の土木建築技術を結集した旅順要塞ほどではなかったものの1914年に始まる第1次世界大戦で展開された塹壕戦の萌芽とも言うべき近代的陣地で山の稜線に沿って壕を掘り、その前には鉄条網を張り巡らせて歩兵の突入を阻止し、さらに一部は鴨緑江の会戦で使用された機関銃を本格的に配置して日本軍を待ち構えていました。一方、日本陸軍は歴戦の名将といえども奥大将はヨーロッパに留学しておらず、海外経験は明治27(1894)年の2月から9月のヨーロッパ視察と明治35(1902)年の9月から翌年3月までイギリス領インドに出張したたけなので塹壕や機関銃を用いた最新の戦術に関する十分な知識は有しておらず、塹壕の構築に当たった中国人工夫から陣地の構造を聞き出して海軍に艦砲による援護射撃を要請するに留まりました。
そうして始まった南山攻城戦では日の出を待って沖の艦隊が艦砲射撃を加え、それを援護として攻撃を開始しましたが、艦砲では鉄条網が破壊し切れず何よりも壕の中に入れて守っていた機関銃が火を噴くと日本兵は次々に倒れ、ロシア軍35755人に対して日本軍約2万人の戦力差がありながら甚大な損害を出し、翌日の早朝に金州城の城門を爆破して占領しても南山陣地の抵抗は続き、9時に総攻撃を開始してから10時間後にロシア軍が旅順要塞に向けて撤退したため19時30分になってようやく占領したのです。
この幅5キロの陣地を攻略するのに日本軍は4387人の死傷者を出しました。この戦死者の中には乃木希典愚将の長男・勝典中尉も含まれますが、腹部に大穴が開いた即死状態でも野戦病院で手術を受けたそうなので第2軍軍医部長だった森林太郎(=鷗外)軍医監の執刀だったのかも知れません。ちなみに乃木愚将は漢詩の才以外は完全な劣等生で勝典中尉もその遺伝子を濃厚に受け継いでいた上、病弱だったので父親と同様に山口県陸軍閥の人脈がなければ陸軍士官学校には入れなかったと言われています。次男の保典少尉は6か月後に203高地で戦死しています。息子2人を戦死させたことで乃木愚将は悲劇の名将になってしまいました。
満州軍はこの想定外の大損害に近代陣地戦の危うさを痛感してシベリア鉄道で大量に運び込まれた土木資材で堅牢なことは承知している旅順要塞については遼東半島の補給路を遮断する兵糧攻めを採用しましたが、旅順軍港に逃げ込んだロシア軍太平洋艦隊が動かないため海軍に砲撃による撃沈を頼まれて乃木愚将を第3軍司令官に登板させて旅順要塞を攻撃させる羽目になり、日露戦争の全戦死者(戦傷死も含む)55655人の3分の1に当たる15400人を失いました。
  1. 2023/05/24(水) 14:37:33|
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