「新潟市内で拘束されたイギリス人ジャーナリストを救出する」翌日、首相官邸では早朝から立野官房長官に呼び出された双木外務大臣と鎌田防衛大臣が登庁して内閣官房の応接室で2024年に東京に開設されたNATO軍事務局から届いた要請について協議していた。
「マイ・ジャーナリスト、ワン・ダイ、ワン・アブダクション(私の記者が1名死亡、1名拉致)」今朝のブリティッシュ・ライフ紙は1面に大きな見出しの下に2人の記者の顔写真を掲載していた。今回はエルトンジョン記者が廊下に立つ見張りの兵士に気づかれないように送った短文だけで記事を作っているので大半は2人の取材歴だった。それでも入社以来、ブレア政権がアメリカの2代目ブッシュ政権に同調して介入したアフガニスタンとイラクでの対イスラム戦争からシリア内戦、ヨーロッパ各地のテロ、そしてウクライナ侵攻などを取材してきた経歴は「英雄」と称賛されるのに十分だった。勿論、エルトンジョン記者が性的暴行を受け、慰安婦=性玩具として扱われている可能性については一言も触れていないが、あえてロシア軍がウクライナで常習化させていた女性に対する犯罪行為を紹介することで読者に考えさせる効果は確保している。
「イギリス政府には軍の派遣を要求する電話とメールが殺到しているそうだ」「だからNATO軍司令部に相談したんだね」双木外務大臣の説明に立野官房長官がイギリス大使館ではなくNATO軍事務局から要請が届いた謎明かしを補足した。
「イギリス軍からはオーストラリアに駐留している初動対処部隊を日本に派遣して救出に当たりたいと言う打診が届いているが、本格介入するには政治的議論が不十分なんだそうだ」「知らない間にオーストラリアに地上部隊を駐留させていたんだな」「防衛大臣がそれでは困るよ」「中央指揮所に閉じ籠りっぱなしだからな」イギリスはアメリカ、日本、オーストラリア、インドの戦略対話=QUADには加盟していないが、マーガレット・サッチャーが鄧小平の恫喝に屈して返還した香港での人権弾圧にヨーロッパで袋叩きに遭い、中国の海外進出の阻止に国家の威信を賭けている。香港返還は本来、大陸の対岸側だけが契約の対象だったがサッチャーは香港島まで奪われて、かつての「アイアン・レディ=鉄の女」も錆びていることを露呈した。そのため旧植民地のシンガポールと旧保護国のブルネイに常駐基地を建設するための交渉を開始したが、どちらも華僑や中国人移住者が社会の中枢を占めているため実現には至っていない。そんな中でイギリス軍はオーストラリアに協同訓練の名目で地上部隊を派遣してそのまま常駐させていたようだ。
「この2人のレポートで海外でも自衛隊の勇戦が周知されて感謝しているよ」「A日新聞がアメリカやヨーロッパで自衛隊は連戦連敗、日本が無条件降伏するのは時間の問題と宣伝しているのが虚偽だと言うことを証明してくれた」「日本でもようやく自衛隊の活躍が国民に認知された」3人は腹の中で決めている方針をどちらかに言わそうと誘導したが互いに乗らなかった。そこで釜田防衛大臣が深く息を吸ってから口を開いた。
「自衛隊が救出しよう。それで多大の犠牲が出ても仕方ない。この女性にはそれだけの恩がある」「その口ぶりでは既に作戦準備を始めていますね」「まだ指揮所を出る時に統幕長(統合幕僚長)に指示しただけだが、彼のことだから作戦計画を完成させているかも知れない」立野官房長官の指摘に釜田防衛大臣が答えた時、胸の内ポケットの中でスマートホンがメールの着信を知らせた。
「来たな・・・なるほど陸空共同作戦か」釜田防衛大臣がスマートホンの画面を見ながら思わせ振りな独り言を呟くと2人はわざとソファーの背もたれに身体を預けて説明を待った。
「メールの発信地点とGPSの位置情報で所在地が確認できました。新潟市内の小学校です。ここには北朝鮮軍の派遣部隊約100名が駐屯していると確認しています」「北朝鮮の参戦は閣議で報告したかな」「私はオンライン参加なので忘れたかも知れません」「私が報告しましたが総理は興味を示しませんでしたね」釜田防衛大臣の前置きに立野官房長官が突っ込みを入れると双木外務大臣があまり好ましくないオチをつけた。最近の石田首相は疲労感が深刻で妻からも辞任を勧められているが、生前の加倍首相から「難病による健康上の理由で退陣したことは政治家として無責任だった」との後悔の弁を聞いていたので応じる気配はない。
「今夜、新発田の30普連に襲撃させて駐屯部隊を宿営地から引き離し、そこに戦闘機に援護させた航空救難隊のヘリで救助すると言う作戦です」「メッディックに戦闘救難させるんだね」釜田防衛大臣が作戦の概要を続けると元防衛大臣の双木外務大臣が補足した。航空救難員=メディックは陸上自衛隊の空挺とレンジャー、海上自衛隊の潜水の全課程を修了した超人だが、本来は脱出して戦場に落下傘降下したパイロットを救出することを任務としていて落下傘を見て捕獲に来る敵地上部隊との戦闘にも熟練している。それにしても航空救難隊のUHー60ヘリコプターには機関銃用の銃架はついているのだろうか。内局が予算化していない可能性は否定できない。
「総理の承認を得て実施することにしよう」「NATO軍の連絡事務所には・・・やはり官房長官からお願いします。私はイギリス政府に伝えます」「私は作戦準備を進めます。中央指揮所に戻っても良いでしょうか」話が決まって縮小版安全保障会議は解散になった。ところで電話一本で抜けてこられる釜田防衛大臣が閣議をオンライン参加にしていて良いのだろうか。
- 2023/05/28(日) 14:50:18|
- 夜の連続小説9
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