「日本政府、自衛隊の勇敢かつ適切な対応によってロシア軍の指揮を受けた北朝鮮軍によって不法に拉致されていた我が国の女性ジャーナリストを奪還していただいたことにイギリス王国政府として心より感謝申し上げます」翌朝、駐在武官・スタイリー大佐の報告を受けたジュリア・ロングボトル駐日イギリス大使は緊急記者会見を招集した。ロングボトル大使は同性としてエルトンジョン記者が受けているであろう性的虐待を苦慮していてスタイリー大佐に迅速な救出を検討させていた。それを受けてスタイリー大佐は在日アメリカ軍司令部を通じて統合幕僚長と直接連絡するようになり、今回の作戦の概要はロングボトル大使にも伝えていた。
「それだけでなく取材中に対人地雷によって死亡したポール・マッキイトニー記者の遺骸も収容していただいたことで、これまでも海外での活動で目にしてきた自衛隊の人道に対する真摯な取り組みが戦時にも維持されていることが確かめられました。改めて深く敬意を表します」ハリウッド女優的な風貌ではなく日本人の感覚で言えば60歳を過ぎてもアイドル的な愛くるしさがあるロングボトル大使がやや鼻声になり、目を潤ませながら熱弁を奮うと、これまでの報道が虚偽であることが暴露されて否定に躍起になっている日本人の記者たちも押し黙った。
昨夜、エルトンジョン記者を横田基地内の軍病院に入院させることが決まるとスタイリー大佐は妻を呼んで付き添わせた。これには平静を装っているエルトンジョン記者も「静かな病室で過ごす間に心に負った傷が急激に進行して衝動的に自死を図る惧れがある」と言う軍医の助言を伝えられたロングボトル大使の指示だった。そのため妻は千代田区の官舎から大使館の公用車で横田基地まで来た。イギリス大使館は明治5年に大名の江戸屋敷3つと旗本の居宅をまとめて安価で永久貸借したため一等地にある。また敗戦後は日本が独立するまで海軍が軍艦・リターンとして管轄していたので駐在武官は海軍の指定席になっている。
「目が覚めたのね。私はスタイリー大佐の妻です。もう少し眠るように薬をもらいましょう」スタイリー大佐が大使への報告のために帰って間もなくエルトンジョン記者は目を覚ました。枕元で本を読んでいた妻と顔を見合わせるとアメリカ人でも看護士でもないことに困惑した。妻は温和な笑顔を浮かべると身を乗り出して声をかけた。
「いいえ、スマートホンを充電してもらえるかしら」妻は病室に入る前に看護士から「衝動的に自死する惧れがある」「パニックを起こす可能性が高い」「だから鎮静剤を投与して眠らせた方が良い」と指示されているがエルトンジョン記者は毅然とした態度で要望を口にした。
エルトンジョン記者はスマートホンを奪われないため必ず検査されるナップザックやウェストポーチ、セカンドバッグには入れず、ズボンのベルトの下に挟んで隠していた。拉致されてからは畳んだズボンの中に隠して身に着けなかった。裸でいることが兵士たち的に刺激したのは間違いないがジャーナリストとして撮影と連絡の手段を失うことは何があっても避けなければならなかった。そのスマートホンも充電しなければ使えない。
「解ったわ。病室のコンセントなら大丈夫でしょう」「日本のコンセントはイギリスとは違うから充電できなかったのよ」イギリスのコンセントは横向きの穴2つの上にもう1つ穴があるBF式でアダプターを装着しなければ使用できない。最近は外国人の利用客が多い高級ホテルの洗面台には複数のコンセントが設置されているが、アメリカ軍の病院もNATO軍や在韓アメリカ軍などで勤務した時に購入した家電製品を愛用する将兵のため病室には複数のコンセント・アダプターが用意されている。しかし、BF式はイギリス以外は少数派のはずだ。
「ポールの遺骸は・・・」「検屍が終わって今日はイギリスに送還するための準備を受けるはずよ」妻がベットの脇のコンセントで充電を始めるとエルトンジョン記者は安心したように雑談を始めた。それでも話題は心弾むものではない。
「ジエータイはヘルメットと一緒にボディーアーマーベスト(防弾チョッキ)を貸してくれたんだけどポールにはサイズが小さくて着なかったの」「着ていれば助かったかも知れないのにね」妻は日本の警察の海外では自己責任になる防護措置まで強制する過剰な取り締まりには納得できないが今回は同調せざるを得なかった。
「事件の概要について説明していただかないと理解できません」「2人はどこに侵入したんですか」「そこで対人地雷を踏んだんですね」「女性記者はどのような待遇を受けていたのですか」ロングボトル大使の謝恩の辞が終わると記者たちは水をかけるように質問を浴びせ始めた。確かに2人の戦場取材の記事は新潟市郊外のロシア軍輸送機の墜落現場が最後だったから独自の取材力を持たない日本のマスコミが何も知らないのは至極当然なのだ。
「その女性記者、オリビア・エルトンジョンさんの記者会見は何時ですか。ジャーナリストであればマスコミに事実を説明するのはその一員としての責任でしょう」「彼女の戦場レポートはイギリス本国の朝刊に掲載される。それを熟読しなさい」この質問には流石のロングボトル大使もブチ切れた。エルトンジョン記者が充電を終えたスマートホンで長文のメールを送っていたことはスタイリー大佐の妻から聞いている。それがイギリスのジャーナリストだ。
- 2023/06/01(木) 14:30:00|
- 夜の連続小説9
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