昭和48(1973)年の9月2日は山田耕筰さんと共に日本のクラシック音楽、中でも交響楽の普及に多大な貢献をした近衛秀麿さんの命日です。74歳でした。
近衛秀麿さんは一条家、九条家、鷹司家、二条家と並ぶ五摂家の筆頭の名門で大アジア主義の盟主として東亜同文書院=現在の愛知大学を創立した近衛篤麿公爵の二男で(篤麿公爵は明治37=1901年1月1日に病没している)、7歳年長の異母兄は日支事変当時の首相で本来は戦線の拡大に反対していた昭和の陛下の御意に沿って停戦に努力しなければならない立場でありながらソビエト連邦のスターリン書記長が送り込んだ政治工作員のリヒャルト・ゾルゲさんの配下だった朝日新聞の尾崎秀実記者を外交顧問として重用して「蒋介石政権を相手にせず」の失言を大々的に報じられて停戦交渉が頓挫すると暴走を続ける関東軍を支えるため物資と労働力を国家が統制する「国家総動員法」を制定した挙句に政権を投げ出して満州事変の首謀者の1人である東條英機陸軍大臣を首相にしたA級戦犯・近衛文麿公爵です。しかし、近衛家は五摂家でも宮中の雅楽を統括する家柄で3男の弟もホルン奏者で雅楽の研究者、4男の弟は藤原家の氏神の春日大社の宮司になっていて兄・文麿公爵の生母と秀麿さんと弟2人の生母は加賀・前田家の5女と6女の姉妹とは言え妹の方が子供たちに家風=血統を継承させたようです。
秀麿さんは明治31(1893)年に東京の千代田区で生まれました。幼い頃に近衛家の家風として雅楽を学ぶ兄の影響で音楽に興味を持ち、学習院から東京音楽学校に出入りするようになりました。すると当時の男の子らしく飛行機乗りに憧れるようになったため断念させる交換条件としてバイオリンを習うことを許され、大正4(1915)年からはドイツ留学から帰国した山田耕筰さんに作曲を学ぶことになり、同時に東京音楽学校が所蔵するオーケストラの楽譜を片端っしから書写していきました。大正9(1920)年には行進曲・軍艦の作曲者の瀬戸口藤吉さんが主宰しているアマチュア楽団を代演で指揮を初体験しましたが、本人も周囲もあまり高評価は下さなかったようです。
大正12(1923)年にヨーロッパ留学するとドイツは第1次世界大戦の敗戦で極度のインフレに陥ってマルクが暴落していたため高騰している「円」の力で次々に有名音楽家の教えを受け、膨大な楽譜を買い漁り、ベルリン交響楽団を丸ごと雇って指揮するなど芸術的放蕩(当然、ドイツ人の愛人がいた)の限りを尽くして帰国しました。
帰国後は山田さんと共に日本に交響楽を普及させるべく活動を開始して大正14(1925)年に日本交響楽協会を設立し、念願だった常設交響楽団を実現しましたが、日本の頂点の家柄のお坊ちゃまには常識的な金銭管理はなく、その後も繰り返される不正経理によって楽団は分裂して、後のNHK交響楽団=現在の東京交響楽団を創設することになりました。
その後は兄が政界で起こしたような混乱を音楽界で続発させますが、秀麿さんは独自の才能と見識を持っていたため日本にクラシック音楽、交響楽を普及・定着させることに大いに貢献しました。ちなみに法政大学と立命館大学の大学歌を作曲しています。
- 2023/06/02(金) 15:39:21|
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