昭和35(1960)年の6月4日に帝国海軍の雷(いかづち)級駆逐艦の2番艦・電(いなづま)と暁(あかつき)級駆逐艦の4番艦・電に続く3代目で海上自衛隊のいかづち級護衛艦の2番艦・いなづまが津軽海峡東口海域での夜間対潜訓練中に護衛艦・あけぼのと衝突して2名が死亡、2名が負傷する事故を発生させました。
実は帝国海軍の「電」、海上自衛隊の「いなづま」と言う艦は衝突事故の常習犯です。初代の電(311トン)は明治32(1899)年にイギリスのヤーロー社で建造されて日本に回航後は日露戦争に参戦して旅順港奇襲攻撃や日本海海戦の夜襲に参加しましたが、明治42(1909)年12月16日の午後5時過ぎに高速試験航行を終えて函館に戻る途中の葛登支岬の約3キロ沖で倍の大きさの千島海運の商船・錦龍丸の前を横切ろうとして右舷後部と船首が衝突して曳航中に函館港沖の約6.5キロで浸水により沈没しています。
2代目の電(1680トン)は昭和7(1932)年に暁級駆逐艦の響(ひびき)、雷に続く4番艦として大阪の老舗・藤永田造船所で建造されました。昭和8(1933)年に昭和三陸地震の被災者救済のため朝鮮半島の鎮海基地から僚艦・雷と共に日本海を横断して急行しましたが、翌昭和9(1934)年6月29日には済州島沖での演習中に駆逐艦・深雪(みゆき)に衝突して両艦とも艦首が折損して吹雪は沈没して4名が死亡し、1名が行方不明、電は1名が行方不明になりました(事故後、名艦長・有賀幸作少佐が着任した)。さらに開戦後の昭和17(1942)年にはフィリピンのダバオ湾口で4分の1の大きさの糧食の運搬船・仙台丸と衝突していますが、その一方で同年3月1日のスラバヤ沖海戦では竹内一艦長の命令一下、撃沈したイギリス重巡洋艦・エクスターの乗員376名を救助しています。しかし、昭和19(1944)年5月14日にフィリピンのセレベス海でアメリカ海軍の潜水艦に撃沈されて常盤貞蔵艦長以下169名が戦死しました。
そんな電の艦名と宿命を継承した3代目・いなづま(1075トン)は昭和31(1956)年に三菱重工玉野造船所で建造され、艦番号は203でした。同年に第1護衛艦隊が創設されるといかづちとあけぼのと共に配属されました。そして6月4日の事故の後、応急修理のために入った凾館のドックでもガソリンを使った作業中に火災が発生して乗員2名が死亡、乗員4名とドッグ作業員2名が負傷する事故が起きています。昭和58(1983)年に除籍されました。
とどめに現在の4代目のいかづち級護衛艦の2番艦・いなづま(4550トン)は2023年1月10日にドックでの定期検査後の試験航行中に山口県周防大島沖の岩礁で座礁事故を起こしています。
昭和期の帝国海軍の艦名は戦艦が律令国名、重巡洋艦が山の名前、軽巡洋艦は川の名前、駆逐艦は季語や天候気象、海洋現象、航空母艦は飛行に関する吉祥語から選ばれていて海上自衛隊も大きさで踏襲しています。欧米の海軍のように個人名を羅列するよりも品があって好ましいですが(砕氷艦・しらせは陸軍の白瀬矗輜重中尉から採ったと思われがちですが半島や海岸から命名する輸送艦扱いなので南極大陸にあるシラセ海岸に由来します)、海上自衛隊の艦名は撃沈された帝国海軍の艦名を踏襲しているため外国の海軍からは「幽霊の艦隊だ」と言われていて、ここまで続くと流石に「いなづま」は悪霊でしょう。
- 2023/06/04(日) 15:40:12|
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