屯田エレナはロシア軍が新潟に上陸する直前に山口県下関市の田舎の自宅に戻っていた。自衛隊としては新発田市内の無線傍受施設が上陸前の攻撃で破壊されたため万難を排して中国地方の日本海側の施設を維持しなければならないが、攻撃を受けた時に文民であるエレナが巻き込まれることは避けなければならなかった。その一方で元ロシア人でありながらロシア軍による住民虐殺の現場となったチェチェンの出身で自衛隊に協力しているエレナを保護するには自衛隊の基地内で生活させるのが最適なのも確かだった。それでもエレナが今度は護衛が同乗した航空自衛隊の車両で自宅に帰ると屯田家は喜びを爆発させた。
「先ずは佛壇に挨拶からね」「やっぱりウチの嫁はできてるわ」エレナは玄関で出向かえた両親に挨拶すると祖父母が待っているはずの座敷を兼ねた佛間に向かった。父は今度も同じWAFのドライバーと護衛の空曹が運んでくる荷物を玄関で受け取っていた。
「エレナ、お帰り。ご苦労さまだった」エレナが母と一緒に佛間に入ると床の間の前に座っていた祖父母が同時に立ち上がった。佛壇に参るのは自分の仕事と思っている祖母は夫=祖父が立ち上がったことに唖然としていたが、本人は母の後ろに立っているエレナに歩み寄るといきなり抱き締め、身長はあまり変わらないので頬ずりになった。祖父はエレナが自衛隊からの要請で基地に赴任したことを子供の頃に見送った徴兵と同じ出征と思っていて相手構わず「お国のために働いている」と言い触らしたかったが近くの駐在所の警察官から指導を受けた息子夫婦=両親や孫の信彦に厳重に口止めされていたのだ。
「信彦が仕事で好かった」「うん、孝行息子が怒って暴れちゃうところだったね」祖父は流石にキスはしなかったが感激を噛み締めて恍惚の表情を浮かべている。それを見ながら祖母と母は呆れる前に安心したよう呟き合っていた。
その屯田局員は仕事中も興奮が抑え切れず「エレナの動向は秘匿しなければならない」と言う警察からの指導が守れそうもなかった。公式にはエレナが勤務していた部隊自体が存在を秘匿されていてそこに配置されていたことは完全な防衛秘密なのだ。こうして帰ってくる当日に平常勤務しているのも行動の秘匿のためだ。するとクールで鋭い重中局員はエレナがどこかに単身赴任していることを察していて、数日前からの屯田局員の態度に「嫁が帰ってくるな」と思いながらも「鼻血で郵便物を汚すなよ」と皮肉に釘を刺した。
屯田局員は土日曜日の配達の代休で中国地方の日本海側の基地へ行ってエレナに会っていたが、男性隊員には認められる性理休暇=性的理由=欲求不満を解消するための休暇が夫である屯田局員が部外者のためエレナには適用されず、顔を見て夫婦の絆を確かめるだけだった。それでも双木外務大臣暗殺のために潜入した韓国軍の特殊部隊の工作員を加光寺の住職に護身用にもらっていたMK3手榴弾で殺害して罪の意識に慄いていた後、親しくしていた海辺のレストランの夫婦が残酷に殺害されたことを聞いて「仇討ち」と自己弁護していたので性欲は湧かなくなっていた。その妻が「殺されるまで執拗に性的暴行を受けていた」と教えられては尚更だった。それでも愛しいエレナが帰ってくるとなれば話は別だ。
「エレナ、お帰り・・・」「ダノン」夕方、屯田局員が自家用車を庭に入れるとジャージに着替えているエレナは母と農機具の手入れをしていた。ドアを開けながら立ち上がったエレナに声をかけると出会った頃の呼び名を叫びながら胸に飛び込んできた。エレナは首に両腕を回して引き寄せると強く唇を重ねてきた。母としては祖父が先に佛間で抱き締めた場面を目撃しているので夫である息子の胸に飛び込めば安心だった。それでも屯田局員は母の視線が気になって今一つその気になれずエレナの背中を柔らかく撫でるだけだった。
エレナの帰宅を祝す姉が加わった女性陣総掛かりの御馳走が並んだ夕食を終え、珍しく気を使った姉一家が早々に引き上げ、当主である父、祖父に続いて風呂に入れば後は久しぶりの夫婦の営みだ。重中局員の皮肉ではないが風呂上がりのエレナのパジャマ姿を見ていると鼻血を噴きそうだった。これからあのボタンを外して下着を付けていない上半身を晒し、緩いゴムのズボンと下着一枚を脱がせば準備完了だ。秘部に生える薄茶色の毛が目に浮かぶ。
「貴方・・・私のダノン」ベッドの中で準備を終えられたエレナは屯田局員を見上げながら名を呟いた。勤務していたことが秘密なので基地内での生活についてもあまり聞かされていないが、女性自衛官用の隊舎で個室を与えられていたと言っていた。その広くはない個室のベットで眠る時、今回持ち帰った額に入れた2人の写真を見詰めながらこの名を呼び掛けていたようだ。この写真は結婚前に東京に旅行してニコライ聖堂の前で撮ったものなので確かにあの頃のエレナは「ダノン」と呼んでいた。ただし、可愛い「ダノン」と言う呼び名は初めて名前をメールした時、「屯田信彦」の氏名のうち読めたのが歴史の講義で習った「織田信長」に重なる「田信=ダノブ」だけだったからだ。決して可愛くない。
「私、赤ちゃんが欲しい」エレナは身体がつながり、快感に酔う悩ましい顔を見せながら荒い吐息の中で思いがけないことを口にした。屯田局員も結婚した以上、子供を望まなかった訳ではないが「今は2人の生活を楽しみたい」と避けていた。結局、言葉に甘えてしまった。

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- 2023/06/09(金) 15:14:22|
- 夜の連続小説9
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