fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

6月11日・ナポレオン後のオーストリア側主導者・メッテルニヒの命日

1859年の明日6月11日は革命後のフランスを乗っ取って全ヨーロッパとの戦争を繰り返したナポレオン・ボナパルト皇帝が失脚した後のウィーン会議で時代を後戻りさせる施策を主導したクレヌンス・フォン・メッテルニヒことクレーメンス・ヴェンチェル・ロータル・ヌ―ポムク・フォン・メッテルニヒ=ヴィネブルク・ツー・バイルミュタイン宰相の命日です。
メッテルニヒ宰相は1773年に現在のドイツの南西部でライン川沿いにあった神聖ローマ帝国のカソリック教会司教の領地のコブレンツで神聖ローマ帝国に隷属していたオーストリア帝国の伯爵家で生まれました。中世ヨーロッパの貴族社会では父方、母方双方の家系を誇示するため子孫の名前に加えるので長ければ長いほど名門の御曹司と言うことになりますがメッテルニヒ宰相のフル・ネームは極端です。
16歳で遠くはないフランスの国境を越えたところにある都市・ストラスブールの大学に入学して外交学を専攻しますが、その年の7月14日にパリの政治囚が収監されていたバスティーユ監獄が襲撃されてフランス革命が発生すると革命軍はプロシア=ドイツ国境のアンザス、ラインランドを占領したため1790年に両親から帰国を命じられて、この年の2月にオーストリア皇帝・ヨーゼフ2世が崩御して即位したレオポルト2世の戴冠式でのカソリック系伯爵団の式武官を父親に代わって務めることになり、17歳にしてウィーンの宮廷内での知名度と評価、人脈を獲得しました。
戴冠式後、父親は現在のベルギーのオーストリア領を治める総督に就任したためドイツ南西部のマインツの大学で勉強を再開したメッテルニヒくんも長期休みにはブリュッセルに行って仕事を手伝うことで実務経験を積みました。すると1792年にレオポルト2世が崩御したため父親は前回、見事に務め上げたメッテルニヒくんに同じくカソリック系伯爵団の式武官を命じてフランツ2世の即位から戴冠式までの諸行事を取り仕切り、評価は益々高まりました。
やがてフランス革命政府は1793年に国王・ルイ16世とオーストリア皇女だったマリーアントワネット王妃を断頭台で処刑したことで敵意を剝き出しにした諸王国に侵攻を繰り返すようになり、ベルギーでも戦争が勃発してメッテルニヒくんも司令官である父親の伝令として参戦して1794年には戦費調達のためイギリスに渡って国王以下の人脈を構築しました。すると名門貴族の父子を同時に失うこと危惧した宮廷上層部の配慮でウィーンに移動を命ぜられ、ここで公爵の孫娘と結婚して侯爵(伯爵よりも上)に叙せられました。
その後、フランスはナポレオン皇帝の統治下で強大な帝国になって周辺国を領地化していきますが、メッテルニヒさんは在フランス大使としてナポレオン皇帝の再婚を仲介して信頼を得る一方で
在プロシア大使として密かに包囲網を画策して外務大臣に就任すると対抗勢力を指揮してナポレオン帝政を追い詰めていきました。そして1815年にナポレオン皇帝が失脚するとウィーン会議を開催してヨーロッパをフランス革命以前に戻すべく議論を主導しましたが、封建体制が破綻を来たし、民衆に自由主義が浸透していた時代にはそぐわず、1848年にはオーストリアでも庶民による3月革命が起こってメッテルニヒ宰相はイギリスへの亡命を余儀なくされました。1851年に帰国を許されてウィーンで余生を過ごして亡くなりました。86歳でした。
  1. 2023/06/10(土) 14:33:02|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<続・振り向けばイエスタディ516 | ホーム | 続・振り向けばイエスタディ515>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/8483-e67ad1d1
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)