「折角、帰宅されたところを申し訳ありません」翌々日の早朝、今度は黒塗りの業務車1号が迎えに来た(航空自衛隊は紺だった)。運転手は今回も女性自衛官=WAVESだが、護衛として右腕に黒地に白字で「警務」と書いた腕章をはめている男性の海曹が同行している。エレナは梅香学院大学の学生時代、下関市内で腰までの詰襟に7つボタンの若者を見かけて日本人の同級生に訊ねると「海上自衛隊のパイロット学生」と教えられた。あの時は話すことはなかったが今回は数日間を基地内で過ごすことになる。
「やっぱり海軍は桜に錨なんだね」「はい、海上自衛隊のシンボルです」祖父は業務車1号のボンネット前部に白色で描かれている桜を配した錨を見てWAVESに声をかけた。ヨーロッパの海軍では女性の水兵もセーラー服が一般的だが海上自衛隊ではアメリカ海軍式に海曹と同じダブルのスーツだ。そのダブルの金ボタンにも桜に錨が浮き彫りされている。
「それじゃあお父さん、お母さん、お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、行ってきます。信彦さんをお願いします」「うん、お国のために頑張って下さい」父も家族で話し合った時、祖父が息子をたしなめた言葉にエレナが共感していたのを見て今回の仕事を戦前の感覚で理解するようになったようだ。確かに父が子供の頃には戦争物の映画やドラマ、小説や漫画が社会に溢れていた。ただし、大半は反戦反軍に洗脳することが目的の偏向した作品だったような気がする
「屯田エレナ、万歳」「万歳」「万歳」エレナが後部座席に乗り込み、警護の海曹が助手席の前で直立不動の姿勢をとって敬礼すると祖父が子供の頃に経験した出征兵士の見送りを再現した。屯田局員は仕事に出かけているがこの見送りに立ち会えばどのような態度を取ったのだろjか。何にしろ今朝の屯田局員は消耗し切っていて朝から生卵を2つも食べていた。逆にエレナが元気一杯なのは身心ともに十分に愛情を注ぎ込まれたからなのかも知れない。
「お祖父さんは軍隊の経験はないんでしょう」「はい、第2次世界大戦当時は小学生だったそうです」「やっぱり見送った方か」屯田家を出ると護衛の海曹は前を向いたまま質問した。敗戦から80年近くが過ぎ、未成年だった少年兵でも90歳を過ぎているので矍鑠(かくしゃく)とした祖父が元軍人とは思えなかったようだ。
「帝国海軍は志願制でしたからあまり出征兵士の見送りは行われなかったようですが、山口は陸軍閥の県ですからやはり徴兵される若者が多かったのでしょう」帝国海軍は志願制のため入営者は大湊、横須賀、舞鶴、呉、佐世保の海兵団に自主的に集まり、最終の身体検査を受けて入隊した。この身体検査で不合格になると帰宅しなければならないので徴兵検査に合格していて仮に最終の身体検査で問題が見つかっても結核などの伝染病や治癒の見込みがない重篤な病気ではない限り軍務として治療を受ける帝国陸軍のように華々しい見送りはあまり行われなかった。強いて言えば地域の壮行会に出席するくらいだが主役はやはり陸軍だった。これは志願した海軍と強制される陸軍では激励の必要性が違ったからではないか。
「それでも海が綺麗な土地ですけどね。あっ、角島大橋を見たかったな」エレナは護衛の海曹の説明が難しかったので答えなかった。するとそれを察した運転席のWAVESが答えた。岩国基地との往復では美祢インターから中国道に乗るようで海岸線の道路は豊浦町の手前までになる。そこから先は二見のトンネルを潜ると山間部の道路を進むようだ。
2000年に開通した豊北町の角島大橋は長さ1780メートルで離島・角島と対岸を結んでいるが、青い海に白い橋が緑の島と大空に向かって真っ直ぐに伸びている情景が美しく神秘的で若い女性が憧れるのは理解できる。一方、エレナは祖母に「角島大橋は真西に向かっているから西方浄土に渡る懸け橋のようだ」と教えられているので屯田局員と渡る時には手を合わせている。それにしても屯田家がある地区には海水浴場やエレナは近づかない弥生人の集団墓地の遺跡があるが知名度は今一つらしい。
「屯田さんは岩国に来たことは」「いいえ、瀬戸内海側は新幹線を使うことが多いので自動車では防府までです」「それでは錦帯橋に寄りましょう」山口ジャンクションで山陽道に乗り換えて岩国インターで下りると護衛の海曹が腕時計を見て確認してきた。岩国市は山陽新幹線の駅と山陽自動車道のインターチェンジが市街地から外れた山間部にあるが、そのおかげで錦川沿いに下りながら途中にある観光名所・錦帯橋に寄ることができる。
「それでも初めての観光なら旦那さんと一緒の方が好いでしょう」「女心はそんなもんか」「そうですよ。分かってませんね」エレナとは関係なしに前席の2人が議論を始めた。エレナとしては今まで屯田局員が小中学校の遠足で行って気に入った場所に案内してもらっているので違和感はなかったが、「2人の思い出造り」と言う意味ではWAVESの意見も納得できる。
「錦帯橋って橋でしょう。角島大橋のように大きいんですか」「いいえ、木造の古い橋です」「古くはないですよ。昭和25年にキリヤ台風で流されて2005年の14号でもやられていますから継ぎはぎです。世界遺産にしろなんて馬鹿みたい」このWAVESは特に橋が好きな訳ではないようだ。この知識は案内することになった時のガイド用に勉強したのだろう。
- 2023/06/11(日) 14:36:00|
- 夜の連続小説9
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