「日本とロシアは政治的には交戦状態にはありませんが、事実上の武力紛争として貴方には捕虜の待遇に関する1948年8月12日のジュネーブ第3条約に基づく処遇が与えられます」「ダー(はい)」翌日、エレナは岩国基地内でもアメリカ海兵隊の管理地域の隊舎に設けられた捕虜収容所で海上自衛隊の救難飛行艇が日本海で救助したロシア軍の戦闘機パイロットの尋問の通訳を始めた。この隊舎は戦時には捕虜収容所に転用できる構造になっていて孤立した場所で刑務所並みの高い柵で囲まれ、窓には鉄格子が設置されている。アメリカ軍憲兵隊は本部隊舎内に軍事裁判にかけられる被告用の拘置所を持っているが収監者が多数になって収容し切れなくなれば使用する予定らしい。そのため尋問室と通訳室はスピーカーとビデオで接続されていて顔を合わすことはない。尋問に当たる警務官の2尉の発言をニュアンスを換えないように通訳するだけだ。警務官の2尉は相手が同じ階級と判っているので日本語の発言は丁寧だ。
「貴方も軍の士官ですから知っていると思いますが、ジュネーブ第3条約の第17条では捕虜となった者には氏名、階級、生年月日、軍の番号、所属部隊の番号、個人の認識番号又は登録番号を質問されれば回答する義務があります」「ダー」「それでは今の説明を質問としますから回答しなさい」「ユーリー・マーガリン、ロシア連邦防空軍中尉、1994年12月11日生まれ、ロシア連邦極東軍管区・・・」マーガリン中尉と名乗ったパイロットは画面の中であらかじめ用意していた回答を並べながらエレナのネイティブなロシア語に興味を持ったらしく鋭い視線でビデオ・カメラを注視してきた。一方、エレナにとって1994年12月11日はロシア軍がチェチェンに侵攻してきた当日であり、1996年8月31日に撤退するまでのジェノサイド=集団殺害が始まった呪われた日だ。つまりマーガリン中尉はロシアのチェチェン侵攻の申し子と言うことになる。エレナは無意識に映像のマーガリン中尉を睨みつけていた。これでは機械を介した睨み合いだ。
「待遇に関して何か問題はありませんか。食事については宗教上の戒律を尊重しなければなりませんが、ロシア正教会に問い合わせたところ懺悔期間中に肉を食べない以外は特にないとのことでした」「ダー」エレナは山口県内や広島市内にロシア正教会の聖堂がないことを知っているので警務官の2尉の説明に興味をもったがそこは口調を換えずに通訳を続けた。ただし警務官の2尉が口にした神道用語の「大斉(おおものいみ)」はエレナには意味が解らず確認した上で意訳した。
確かにエレナにも春分の日の次の満月に近い日曜日に行われる復活祭=イースターの6週間前から磔になったイエスの苦難を追体験し、自覚なき罪を懺悔するため生物の命を奪う肉や魚を食べなかった経験がある。父は春の畑仕事が忙しい時期に粗食を強要されることが不満そうだったが、母が作る卵と大豆の料理やパンを多めに食べて牛乳をガブ飲みして紛らわしていた。
「しかし、現時点では国際赤十字委員会から捕虜に提供する食料は届いていませんから我々が与える食事を摂ってもらうしかありません」「ダー、オーチン・ブクースノ(とても美味しい)」食事の話題が具体的になってマーガリン中尉の表情が緩んだ。
第2次世界大戦前のジュネーブ条約では捕虜の食事は現地軍の兵士と同様であれば合法とされたが、東南アジアや太平洋戦線で拘束されたアメリカ軍やオーストラリア軍の捕虜は日本軍と同じ食料を与えられながら粗食に慣れている日本兵よりも先に衰弱死した。この問題に対処するため国際赤十字委員会は捕虜用の食材を中立国を通じて提供するようになったが、現地軍が飢餓状態に陥りながら捕虜は十分な食事をとっている矛盾した事態が生じて実効性については疑問が持たれている。それでも湾岸戦争以降、イスラム教徒の捕虜がコルアラーン(コーラン)の戒律で禁じられている食材を与えられる問題が相次ぎ、ハラール(清めの儀式)を与えた食肉を送るようになっている。エレナも航空自衛隊の中国地方の日本海側の某基地で部隊食を摂っていたが想像以上に美味しい上、毎食の献立が変わることに感激して自宅での調理の参考にしようと栄養士に作り方を教えてもらっていた。岩国基地でも海上自衛隊の食事を2回とっているが味噌汁と麦飯の器が大小逆なことに戸惑った以外に違和感はなかった。、エレナはロシア軍の食事を見たことがないが特別メニューを食べているはずの戦闘機パイロットのこの表情を見る限り、あまり美味くはないらしい。
「それで貴方の任務は何だったんですか。レーダーの探知情報を見る限り飛行経路上に輸送機や艦艇は存在せず護衛ではなかったはずです」ここで警務官の2尉が軍事情報の聴取に踏み込んだ。本来であれば航空自衛隊の警務官が取り調べるべき内容だが救助したのは海上自衛隊なので機内で身柄を拘束された時点で担当は決まったようだ。当然、質問事項に関する資料は届いているはずだがマーガリン中尉だけを映しているビデオでは判らない。
「私は亡命を希望しています。偵察任務で接近して日本空軍(航空自衛隊)に撃墜される形で脱出しようと考えていました」「どうして亡命を」「ロシア軍にとっては参戦したこと自体に無理があるんです。戦闘機も燃料や弾薬から部品まで枯渇していて飛行不能になった機体から共喰い(流用=航空自衛隊用語)して飛ばしている状態です。上空で故障して墜落する事故が続発しています」映像のマーガリン中尉の顔は怒りに紅潮していた。傍受した無線の軍人同士の愚痴でも聞いたこの説明を日本語に翻訳しながらエレナは複雑な心境になってしまった。
- 2023/06/12(月) 15:02:31|
- 夜の連続小説9
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