「希望する亡命先は日本なのか」「ニエート(いいえ)、ヴィクトル・ベレンコ中尉のようにアメリカを希望します」映像のマーガリン中尉の目に希望の光が灯ったように見えた。ヴィクトル・イヴァーノヴィチ・ベレンコ中尉は1976年9月6日に当時は最高度の軍事秘密だったソビエト軍の最新鋭戦闘機・ミグ25で函館空港に強行着陸してアメリカに亡命した防空軍のパイロットだ。
ベレンコ中尉の父親はヨーロッパ方面におけるナチス・ドイツ軍との戦闘でパルチザン(遊撃兵)として武勲を上げた軍曹だったが、2歳の時に両親が離婚して父親が再婚した継母に虐待されたため家を離れられる職業として軍人になったと言う(=就職家出)。ところが教官を務めるスゴ腕の戦闘機パイロットになると上層部の娘との結婚を強要されて家事をせずに浪費を繰り返す妻に悩まされることになった。このように個人の人生を上層部の勝手で踏みにじられる共産党と軍を嫌悪感を持って見直すと硬直した組織が腐敗し切っていることを実感して亡命を計画するようになった。そして第513戦闘航空連隊として配属されていたチュグエフカ基地を離陸して編隊飛行の訓練中に墜落を装って急降下すると海面スレスレの超低空で日本海を横断した。そして緊急発進してきた航空自衛隊のFー4EJを振り切って函館空港に強行着陸したのだ。ベレンコ中尉は亡命の4日後に羽田空港からノース・ウェスト機でアメリカへ渡ったが国防総省、国務省、CIA、FBIの監視下に置かれ、名前や住所を頻繁に変えながら現在も市民として生活しているらしい。
この若いマーガリン中尉が名前を知っていると言うことはソビエト連邦時代には「売国奴」「裏切者」扱いされていたベレンコ中尉は英雄視されなくても憧れの的になっているのかも知れない。しかし、ベレンコ中尉は1983年9月1日の樺太上空での大韓航空機撃墜事件では自衛隊が傍受・録音した戦闘機パイロットと地上指令所との交信通話を解読してソビエト連邦側に撃墜を認めさせることに大きく貢献して恩を返している。
「やはりロシアの軍人は世界最強の軍事大国・アメリカに憧れるものなのかね」「ニエート、今のアメリカは信用できません。しかし・・・」警務官の2尉の質問に明るくなったマーガリン中尉の顔が急に曇った。エレナとしてはマーガリン中尉の口調の変化を感情表現が複雑な日本語に翻訳するだけの自信はない。本人の顔を見ている警務官の2尉の洞察力に期待するしかなかった。
「日本にいては命が危ないんです。モスクワと北京は日本の占領が想定外に難航していることに苛立っていて打開策を協議しています」「なるほど・・・」「ヤ・ポニマユ」エレナは無意識に警務官の2尉の相槌まで翻訳してしまった。それを聞いたマーガリン中尉は真顔でビデオ・カメラを注視した。その目には先ほどの敵を探るような険しさではなく同情を帯びた厳しさがあった。
「我がロシア連邦軍に比べて中国軍の戦力はロシア製の兵器の模倣・複製が中心でベレンコ中尉が亡命に使ったミグ25のような代物ばかりです」「要するに最新技術を開発せずに実用化している機器を改良して寄せ集めたってことだな」「ダー」警務官の2尉は海上自衛官の割にはミグ25亡命事件に詳しいようだ。やはりロシア軍のパイロットを取り調べるに当たっての事前学習の教材として調べたのだろう。岩国基地であればアメリカ海兵隊憲兵隊でも資料を入手できるはずだ。
百里基地に運ばれたミグ25はアメリカ空軍の「ミグ屋」と呼ばれる情報分野に属する技術者と航空実験団の航空機整備員によってエンジン出力やレーダー探知能力を確認された後、バラバラに分解された。モリヤ元2佐の第1教育群時代の中隊長(幹部にした張本人)は航空機整備員の空曹としてこの作業に参加したが、「技術的には20年遅れでも大出力のエンジンで鉄板性の重い機体をマッハ3で飛ばす発想と技術には恐れ入った」と語っていた。兎に角、機体はジュラルミンなどの合金製ではなく屋外に放置すれば錆びるような鉄板で、自慢のエンジンのタービン・ブレード(圧縮翼)は数段しかなく「実質的にラム・ジェット」だったそうだ。
「そうなると東シナ海を突破して九州に侵攻することは不可能に近い。我がロシア連邦軍もウクライナ侵攻で消耗した戦力の回復が不十分なまま参戦した無理が表面化している」「なるほど」「ヤ・ポニマユ」エレナにも口調で警務官の2尉が沈痛な顔になっていることは判るが真正面で向き合っているマーガリン中尉は顔を同情一色にして結論を口にした。
「そうなると日本側が対抗手段を持たない攻撃手段としては弾道ミサイル、それも核弾頭を搭載したミサイルを在日アメリカ軍がない大都市に射ち込むしかない。札幌、仙台、名古屋、京都、大阪、神戸、広島、北九州、熊本」マーガリン中尉が列挙した目標に福岡が入っていないのは福岡空港の対面にあるアメリカ輸送空軍の板付基地を除外したからで、この説明が単にマーガリン中尉個人の見解ではないことを物語っている。
北九州=小倉は昭和20年8月9日に長崎で爆発した2発目の核兵器・プルトニウム爆弾の攻撃目標だったが前日の八幡空襲の黒煙で視界が遮られて投下地点が特定できずBー29ボックスカーは退避しながら第2目標の長崎に捨てた。しかし、今回は逃れられそうもない。
「だから通訳しているロシア人女性が広島在住なら早めに転居することを勧めます。ロシア連邦と中国共産党はG7広島サミットに参加していないから核兵器の使用を悪事と考える必要はないんです」突然、言葉を掛けられてエレナは絶句してしまった。あまりにも恐ろし過ぎる助言だ。
- 2023/06/13(火) 15:17:46|
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