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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

名古屋の偉人・杉下茂投手の逝去を悼む。

6月12日に野僧が中学生だった昭和49(1974)年には与那嶺要監督が率いる「燃えよドラゴンズ」が「2度目」「30年ぶり」に優勝したためテレビを点ければ中日ドラゴンズの特集番組しか放送されていない中、昭和29(1954)年の中日ドラゴンズの初優勝の原動力になった大投手として「名古屋の偉人」になっていた杉下茂さんが亡くなったそうです。97歳でした。
野球嫌いの野僧も大学時代にコメディアンの相方としてスカウトされたことがあると言う丸眼鏡の柔和な風貌に好感を持ち、人物紹介の番組を見ていました。
杉下さんは大正14(1925)年に東京の中央区新川で大きな中華料理を営んでいた両親の二男として生まれました。父が50歳の時の息子だったため老齢に入った記憶しかなかったそうですがラジオで6大学野球の中継を聴いてスコアブックをつけるほどの野球好きで、休日には弁当を持って神宮球場に試合観戦に行っていたそうです。11
小学校の低学年になると3歳年上の兄とキャッチボールをするようになりましたが常にキャッチャーで投手としての才能は芽生えませんでした。4年生の2月に父親が病没すると母の実家がある神田の野球の名門小学校に転校したのです。ここで兄たちの草野球に参加しているところを勧誘されて野球部に入部することになりました。その後、旧制・帝京商業学校(現在の帝京中学・高校)に進学すると後に中日ドラゴンズの監督して再会することになる天知俊一監督の指導を受けましたが、当時は肩が弱く長身を活かして主に1塁手として選手生活を送ったようです。そして20歳になった昭和19(1944)年に徴兵で大陸戦線に出征すると野球経験者と言うことで手榴弾投擲競技会の選手にされましたが、軍隊の命令だけに「肩が弱い」とも言えず人一倍の訓練を繰り返した結果、肩が強くなったと言う信じ難い逸話が伝わっています。読売の沢村栄治投手は軍隊の手榴弾投擲で肩を壊したと言われているので投手用の肩でなかったことが幸いしたのかも知れません。
復員後はいすゞ自動車に入社して社会人野球に投手として参加すると最初の試合の球審は天知さんで肩が弱くて投手として使い物にならなかった杉下さんが強肩の速球投手に変身したのを目の当りにして驚愕したそうです。ところが6大学野球が再開されると都市対抗選手権終了後に退職して明治大学に入学しますが、弱体チームの投手では目ぼしい活躍はできず昭和24(1949)年に天知監督が就任した中日ドラゴンズに入団しました。
中日では大学時代に天知さんに教えられた伝家の宝刀・フォークボールと多彩な変化球を操って活躍し、1年目の昭和24(1949)年はチームが5位だったこともあり8勝でしたが1950年は27勝でチームの2位躍進に貢献し、1951年が28勝、1952年が32勝、1953年が23勝、1954年も32勝で天知監督を胴上げさせました。この年、天知監督は国鉄スワローズのエース・金田正一投手に中日打線が封じ込まれても杉下さんが国鉄打線を押さえれば勝機はあり、金田投手の登板に合わせて起用して7勝1敗で杉下さんの勝ちでした。
その後も1955年が26勝、1956年が14勝、1957年が10勝、1958年が11勝で10年連続の二桁勝利と通算215勝の偉業を達成しています。愛知県では追悼番組が放送されたのでしょう。野僧も冥福を祈ります。
  1. 2023/06/21(水) 13:59:55|
  2. 追悼・告別・永訣文
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