「アテーン、ハッ(気をつけ)」「映画なんかで見ることがあるが中々決まってるな」西部方面総監部がある健軍駐屯地では時ならぬ英語の号令が響いていた。イギリスからの義勇兵志願者が自費で来日したのを受けてイギリス軍がオーストラリアに派遣していた輸送機をフィリピンと台湾経由で運行して志願者を連れてきたのだ。各国100名近い志願者のうちロシアとの戦闘を希望するイギリス人は東部方面隊、中国希望のフィリピン人と台湾人は西部方面隊に配置された。西部方面総監は早速始まった短期集中式新隊員課程を視察したが意外なほど慣れた英語の号令に感心しながら同行している防衛部長に声を掛けた。方面総監が視察にくれば訓練を中断して将官に対する部隊の敬礼を実施しなければならないが、その時も「アイズ、ハッ(頭、右)」と決めていた。ちなみに顔を受礼者に向けるこの号令は明治初期には「まなこ(眼)、右」と直訳していたが視線だけを向けてしまうため「顔、右」「面(おもて)、右」などとの比較検討の中で今の号令になったそうだ。
「はい、かなり練習に励みましたから」「そう言えば号令調整(号令の発声練習)が聞えていたな」防衛部長の説明に西部方面総監は納得したようにうなずいた。この英語の基本教練の号令はアメリカ軍の模倣だが、陸上自衛隊の駐屯地売店で売っている軍事英語ハンドブックに載っているので班長要員の陸曹も自習できる。ただし、ハンドブックの文章で「気をつけ」は「アテンション」と記述しているので「アテーン」を予令にして動令を「ハッ」で決めるのは「アン・オフィサー・アンド・ア・ジェントルマン(邦題『愛と青春の旅立ち』)」や「フルメタル・ジャケット」などの軍隊映画で学習したのかも知れない。
「明日からは執銃教練もやらせる予定ですが、義勇兵は戦闘には参加させないんですよね」「うん、後方支援連隊に配属することになる。沖縄戦における鉄血勤皇隊のような活躍を期待しよう」石田政権としては外国人に国内で武器を使用させることに難色を示す沢国家公安委員長や才藤法務大臣の意見を採用して拒否する方針だったが、イギリスの志願者は自費だったため手配が間に合わず、在日イギリス大使館が外務省と防衛省に手を回して体験入隊扱いで訓練を受けさせて予備自衛官に指定して招集することが決定している。
鉄血勤皇隊とは沖縄戦で女学校の生徒を看護・衛生要員として徴用したひめゆり部隊と同様に男子生徒を陣地構築や弾薬運搬、調理や通信伝令などの非戦闘業務に動員した学徒部隊だ。現在の沖縄では元鉄血勤皇隊でも前線の陣地よりもはるかに安全な司令部壕内での通信と伝令に当たっていた沖縄県知事が琉球大学の教授時代に「鉄血勤皇隊も戦闘に参加させられた」「日本兵に弾除けにされた」「竹竿に銃剣をつけて突撃した」などと虚偽の歴史を教え、それが史実化しているが、前線での体験者によれば「士官は生徒が武器に触れることも禁じたが、下士官や兵たちは『護身のために』と弾込めと射ち方を教えてくれた」「弾薬を運ぶと銃座の兵隊が全滅していたので仇討ちとして機関銃を射った」と語っていた。鉄血勤皇隊は戦闘に参加しなくても敵弾が飛び交う中、陣地の銃座に弾薬や食料を運んでいた。義勇兵たちもこの任務を果たしてくれれば確実に戦力になる。
「この義勇兵たちは妙に呑み込みが早いようですが、どちらも徴兵経験者なんですかね」「台湾には徴兵制があるがフィリピンにはないだろう」「勉強不足ですみません」防衛部長の独り言に近い評価と推理に西部方面総監が鋭く反応した。台湾では親中の国民党政権は民主化の名目で徴兵制の廃止を公約するが、政権交代すると中国が軍事的圧力を強めてくるため実現できず、むしろ4ヶ月間の教育兵役が実任務を伴う1年間に延長されている。フィリピンではコラリー・アキノ政権以降、中国人華僑の傀儡政権が続き、中国を仮想敵国とする軍備増強には否定的だった。とは言え西部方面総監も北部方面総監や北部航空方面隊司令官、前の西部航空方面隊司令官と防衛大学校の同期なので先日、勧奨退職した伊藤佳織候補生・元モリヤ将補、現ノザキ佳織とも前川原の同期だった。そのWACとしては出色の同期が防衛駐在官として赴任したフィリピンに興味を持って調べただけで特に勉強した訳ではなかった。一方、前の西部航空方面隊司令官の曽祖父は太平洋戦史に登場する有名な提督で、航空自衛隊の幹部候補生学校の戦史のミッドウェイ海戦の課題研究の討論会で同期たちは流石に曾孫の前で「アイツが悪い」とは言えず困ったらしい。市ヶ谷へ転属した前の西部航空方面隊司令官は今でも「祖父さんの汚名を雪ぎたい」と電話をかけてくる。
「確かに台湾軍とフィリピン軍が自軍の下士官に対中国戦を経験させたいと送り込んでくる可能性は否定できないな」「そうなると秘密保全には気をつけないといけません」「むしろ教訓を持ち帰ってもらえるように配慮した取り扱いを心がけてくれ」意外な指示に防衛部長が困惑しているとグランドでは陸曹が陸士を使って次の動作の展示を始めた。
「フォワード・マーチ、ハッ」どうやら「前へ進め」らしい。ハンドブックでは「フォワード・マーチ」としか記述していないので動令は自己判断でつけ加えたようだ。続いて陸曹は「ワン、ワン、ワンツー」と歩調を数え、「リズムカウント、ハッ」とやらかした。正解は「バイ・ザ・ナンバー」だ。
- 2023/06/26(月) 15:41:00|
- 夜の連続小説9
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