昭和55(1980)年の6月27日に佐渡島の北方110キロを航行中の海上自衛隊の輸送艦「ねむろ」の目の前にソビエト連邦軍のツボレフ16バジャー(機種は爆撃機に分類されていても偵察機や電子戦機、哨戒機などに幅広く転用されている)が墜落する事故が発生しました。
この頃、野僧は地元の大学に入学したばかりでしたが事故報道の翌日には校門の前で赤地に白い文字で「革マル」と書いたヘルメットをかぶった学生運動の活動家たちが「自衛隊がソ連軍機を撃墜」と書いた看板を立ててガリ版刷りのビラを配っていました。
野僧は中学校の社会科の授業で日本の産業は原材料を輸入して加工した製品を輸出して成り立っていると習って以来、シーレーン防衛の重要性を深く認識して海上自衛隊を志望するようになりました。ところが自衛隊生徒の合格通知を父親に破り捨てられてしまい実家から最も遠い蒲郡高校に進学したものの海上自衛隊の航空学生と一般海曹候補学生を2次試験で失敗したため父親の命令で「絶対に行きたくない」と思っていた地元の大学に進学させられたのでした。したがって海上自衛隊志望は変っておらず受け取ったビラをその場で速読すると高校時代に購読していた雑誌「世界の艦船」で仕入れた知識で内容の誤りを指摘しました。
先ず「ねむろ」はアメリカ海軍から供与を受けた戦車揚陸艦の後継艦として昭和45(1970)年に就役して地元の渥美半島から命名された輸送艦「あつみ」の昭和50(1975)年に就役した3番艦でビラに書いてあるような戦闘目的の軍艦ではありません(2番艦は沖縄の日本返還の年に就役したので本部半島の「もとぶ」)。実際、武装は艦首部の40ミリ機関砲が1門だけで(あつみは前後2門)、ジェット機の飛行高度まで弾丸が届き、追いつくとは思えませんでした(その頃は海軍の哨戒機として使用していることは知らなかった)。そして海上自衛隊の輸送艦は硫黄島や父島への物資輸送を目的に建造されていて港湾施設が未整備の海岸でも接岸揚陸が可能なため小笠原諸島の離島への物資輸送に活躍していることを説明したのです。後に1993年7月12日の奥尻島津波地震や2000年の三宅島の噴火で活躍しましたが、大湊地方隊に所属していたため1995年1月17日の阪神淡路大震災では出番がなかったようです。また2005年に退役しているので2011年3月11日の東北地区太平洋沖地震の時には解体されていました。
この時は活動家たちも自分たちが講義に遅れそうだったため用件が終われば解放されましたが、後で蒲郡高校の先輩から「お前が右翼と判ると危険だから近づくな」と注意されました。確かに野僧が入学した年に共産党系の民主青年同盟の新入生が日没後に学生用駐車場で撲殺される事件がありましたが、大学構内への警察の立ち入りを制限する判例「愛知大学事件」の舞台だけに捜査は進んでいませんでした。ところで野僧は海軍少年でも右翼ではありませんでした。
結局、この事故は低高度でねむろに急接近したツボレフ16が操縦を誤って墜落したことをソビエト連邦軍が認め、むしろ周辺海域を捜索して収容した搭乗員の遺骸3体を返還したことに形式的ながら謝意を表したことが新聞で報道されて終息しましたが、野僧は危険な連中に顔を覚えられてしまいました。浜松基地の警備小隊長時代は公安警察に見せられた過激派の機関誌に宿敵として写真と階級・氏名が載っていましたが、その前に手配されていたのかも知れません。
- 2023/06/27(火) 14:42:03|
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