昭和32(1957)年の明日6月29日は敗戦後の極東特別軍事裁判所でA級戦犯として訴追されながら収監されている巣鴨プリズンで我まま放題に振る舞い、公判中に法廷控室で元イタリア大使のA級戦犯を殴打する問題を起こした橋本欣五郎大佐の命日です。
橋本大佐は明治23(1890)年に岡山市で生まれましたが、7歳の時に福岡県門司市に転居して熊本陸軍幼年学校に入営しました。中央幼年学校から明治42(1909)年に陸軍士官学校23期に進みましたが著名な同期としてはアメリカ軍の都市への無差別爆撃を戦争犯罪として脱出した搭乗員を処刑させた罪で敗戦後にB級戦犯として処刑された岡田資中将くらいです。卒業後の兵科は砲兵ですが平和な時代を大過なく過ごして大正6(1917)年には陸軍大学校に入りました。こちらの同期にはA級戦犯として東條英機大将と一緒に死刑になった武藤章中将がいました。
陸軍大学校卒業後は参謀本部ロシア班で勤務して革命後の内戦が続くソビエト連邦を注視し、続いて関東軍に配属されて満洲の特務機関で活動して昭和2(1927)年にトルコの駐在武官になりましたが、ここで第1次世界大戦の敗戦後、革命と独立戦争を指揮してオスマン帝国のシャー制度を廃止して政教分離を推し進めたアタテュルク元帥の影響を受けたことが後の革命を趣味とする過激な行動の原因になったと言われています。
帰国後は参謀本部ロシア班長に就任する一方で昭和5(1930)年10月に参謀本部、陸軍省、東京警備区の陸軍大学校を卒業したエリート将校たちと共産主義の脅威に対抗し得る軍事国家の実現を目指す桜会を創設しました。ちなみに橋本中佐は11月に陸軍大学校の教官に転任すると後に沖縄戦第32軍参謀長になる長勇少佐ほかの急進・過激派を主導して3月事件、10月事件とされるクーデター未遂を起こしましたが、5.15事件や2.26事件を起こした皇道派よりも統制派に近い現実的な思想集団だったようです。その一方で橋本大佐がA級戦犯に指定されたのはこのクーデター未遂事件が5.15事件、2.26事件を誘引して日本が軍国化する発端になったとする連合国側の断定が理由とされています。確かに橋本大佐は静岡県三島の野戦重砲第2連隊長だった昭和11(1936)年の2.26事件では反乱部隊将校の主張を天皇に取り次ぐ仲介役を買って出て陸軍省に赴きましたが、すでに天皇が反乱部隊を「賊徒」と呼んで自ら近衛師団を率いて鎮圧に当たるとの御聖断が下っていることを知って断念しましたが間もなく加担の疑いをかけられて予備役に編入されました。
しかし、予備役になっても趣味の革命は鎮まることなく大日本青年党を結成して統領になり、第1次上海事変で現役に復帰して野重砲第13連隊長として出征するとイギリスとアメリカの艦を砲撃する事件を起こして今度は退役しましたが、昭和15(1940)年に大政翼賛会の常任総務、昭和17(1942)年には衆議院議員に当選しています。ただし、終身刑の判決を受けながら仮出所すると昭和31(1956)年の参議院全国区に無所属で出馬して落選しました。67歳での肺癌による臨終直前、出所後に再々婚した後々妻は離婚を宣言して出て行ってしまいました。それも自業自得だったのでしょうか。
- 2023/07/02(日) 11:15:52|
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