2005年6月30日は大和運輸の2代目社長で「クロネコヤマトの宅急便」を始めて関東地方の中小運送屋に過ぎなかった大和運輸をかつての郵政省、現在の日本郵便に対抗意識を抱かせるほどの大企業に育て上げた小倉昌男社長がアメリカ・ロサンゼルスの娘宅で亡くなりました。80歳でした。
小倉社長は大正13(1924)年に初代・小倉康臣社長の次男、ただし長男は早逝していたため跡取りとして代々木で生まれました。日支事変から敗戦に向かう時代変遷の中で当時としては最難関と言われる学歴を重ね、学徒出征が待ち受けている東京帝国大学経済学部に入学しました。しかし、出征前に敗戦したため卒業した昭和22(1947)年の時点では新制・東京大学になっていました(学歴的には旧制高校から繰り上げの新制大学と同格になる)。卒業後、父が経営する大和運輸に就職すると間もなく肺結核を患いましたが、占領軍=GHQの業務を請け負っていた人脈で日本では入手困難な特効薬・ストレプトマイシンを入手して投与されたため奇跡的に回復しました。4年間の闘病を終えて復帰後は静岡の子会社の再建に取り組み、東京の本社に戻ると昭和36(1961)年に取締役になって2代目社長としての修業を本格化させました。
昭和46(1971)年に代表取締役社長に就任しましたが、昭和51(1976)年にオイル・ショックが起こり、燃料費の高騰と貨物流通量の激減によって経営収支が急激に悪化したため起死回生の一手として郵便局の独占事業だった小包の宅配に参入したのです。しかし、当時は中小運輸会社に過ぎなかった大和運輸が国営の郵便局に対抗するには利用者に新たな魅力を提供しなければならず、そこで「翌日の配達」を売り物にしました。公務員待遇の郵便局員の勤務時間は昼間に限定されていて小包の移動も夕方から朝までは停止します。そこで大和運輸は24時間稼働する集配基地を各地に設置することで受け付けた小包を夜間にトラックで宛先地区の集配基地まで運び、朝には配達できる準備を整えて翌日に届けるサービスを始めたのです。さらに配達時間も夜間から早朝まで拡大するなど国営の郵便局には不可能なサービスを提供することで存在感を強化して、当初は関東地区限定だった業務範囲を次第に拡大して1997年には郵便局と同様に離島や山間部を含む全国で「クロネコヤマトの宅急便」を利用できる態勢が完成しました。
野僧は車力の管理小隊長の時、ヤマト運輸の親子クロネコのマークを小隊の部隊章にしたいと考えてヤマト運輸の青森支店に使用許可を打診したところ、航空自衛隊の輸送幹部と知った支店長が話を本社に上げてしまい(日本通運が独占していた外注輸送に喰い込む人脈を探していたらしい。野僧も日本通運と航空自衛隊の輸送担当者の過度の癒着に反発していた)、当時の小倉昌男代表取締役から電話を受けました。すると青森までの長距離電話だったにも関わらず輸送=運送談議で盛り上がり、小倉社長の「高速道路網を整備するよりも一般道を駐停車可能に拡張するべきだ」と言う意見に対して野僧は「鉄道輸送を維持・強化するべきだ」「新幹線の貨物用車体を開発すれば航空貨物便は不要になる」と持論を展開しました。浜松時代にはSECOMの飯田亮社長とも電話で意気投合しましたが昭和の経営者は立派でした。
- 2023/07/03(月) 15:29:00|
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