「指揮官は市役所の市長室にいるんだな」「ダー(はい)」網走市内の建物をしらみ潰しに捜索している第25普通科連隊は広くはない繁華街を包囲する態勢を作っていた。網走市は網走川の河口付近にある繁華街を中心に森林を囲うように住宅地が広がっていてそこを戦車と普通科連隊で一軒一軒検索して回るのには予定以上の時間を要した。ロシア軍の上陸部隊は市民会館を宿舎にしているが停電、断水状態では快適な居住環境とは言えず兵士たちは勝手に留守になっている住宅で寝起きしていた。そこで捕獲した下級士官を尋問すると意図もあっさりと指揮官の居場所を証言した。すでに指揮系統だけでなく規律心も崩壊しているらしい。
「指揮官の姓と階級は」「エロモスキー大佐です」今日はヘリコプターではなく地上部隊に同行している語学要員の空曹が通訳するとこれにも素直に答えた。捕獲されてからは捕虜の待遇に関する1948年8月12日のジュネーブ条約に基づいて士官待遇を与えられているため従属した気分になっているのかも知れない。実際は自衛隊の幹部の待遇は外国軍に比べて格差が小さくロシア軍の士官としては不満を覚えるはずだが、飢餓寸前の空腹を世界で最も美味い軍の携帯食と賞賛される自衛隊の缶飯を満たせるだけで満足なのだろう。
「エロモスキー大佐は降伏に応じそうか」「いいえ、ロシア軍に降伏はありません。ロシア軍にとって降伏は帝政時代であればツアーリ(皇帝)、ソビエト連邦では共産党、現在もクレムリンの最高権力者に対する裏切りに他ならず、それは死に値する重罪なんです」通訳しながら語学要員の空曹は不可解な表情になった。それは初級士官のロシア語を聞いている自分の耳を疑っているような、理解した言葉が信じられないような、何よりも頭の中が混乱し過ぎて空中分解してしまったような顔だった。平成生まれの空曹が学校で習い、テレビで見てきた帝国陸海軍は天皇自らが断じていたように時代錯誤な精神主義で国民に塗炭の苦痛と多大な犠牲を強いた悪の権化だった。中でも東條英機陸軍大臣の告示「戦陣訓」によって捕虜になることを禁じられた日本軍は降伏と言う選択を奪われ、全滅することを玉砕と美化される死への花道しか残されていなかったと思っていた。しかし、戦陣訓より前の日露戦争や第1次上海事変でも負傷して意識を失って敵に保護されて捕虜となった軍人を「生き恥を晒した」と軍だけでなく社会が抹殺しているのでこの認識は間違っている。それでも日本軍では捕虜となることを死んでも避けるべき恥辱であっても天皇に対する裏切りとは言っていない。語学要員の空曹はこれから捕虜の尋問の通訳を命じられているが、腹ではなく胸の中に「同情」の念を抱えてしまいそうだ。
「市役所に突入します。現時点で抵抗はありません」戦車を盾として包囲網を縮めていった第25普通科連隊は市役所の駐車場に進入すると中央玄関から建物内に突入した。最近は都市部に所在する普通科連隊では隊舎を使った市街戦の訓練も実施するようになっているが、「風雪磨人」の第25普通科連隊では陸自教範「市街戦」で仕入れた知識しか実施要領は持ち合わせていない。それでも即座に応戦できる態勢を採りながら1階のロビーから数名が左右に分かれ、数名は中央階段を駆け上っていった。本来は各個室のドアを蹴破って閃光音響手榴弾を投げ込んで制圧していくのだが、そのような洒落た小道具は配分されていないので加害範囲が2メートル程度のMK3手榴弾で代用した。間もなく建物内で連続した爆発音が響き始めた。
「このWACは集団で暴行されてるな」「バインダーを持っていたところを見ると通信員かも知れませんん。ロシア美人だ」先頭を切って3階まで駆け上がった指揮官でレンジャーの2尉は市長室の前の廊下に倒れている女性兵士の遺骸を見て立ち止まった。同行しているレンジャーの1曹も直ぐに追いつくと跪いて遺骸の様子を確認した。女性兵士の迷彩服上下と下着、軍靴は脱がされて廊下の隅に投げ捨てられている。顔の脇にはロシア語を手書きした文書をとじたバインダーが落ちていた。死後数日が経過しているようで遺骸の肌は灰色(日本人なら土色)に変色しているが乱れた金髪を床に広げて仰向けに倒れている顔立ちと幾つも歯形が刻まれている乳房が美しいことは判る。死因は特定できないがロシア兵が女性を殺害する時の猟奇的な手法は採っていないようだ。
ズーン、「始まったな」「ポルコビニク(大佐)・エロモスキー、ザモロジッチ(動くな)」建物内で手榴弾の爆発音が響き始めたのを聞いて2尉はドアを手で開けて小銃を構え、語学要員の空曹に渡されたメモの片仮名を暗唱した。この点は礼を尽くした形だ。しかし、それも無駄だった。
「これは自決か・・・射殺された公算が大きいな」エロモスキー大佐と思われる初老の男性が市長席の椅子に仰向けにもたれ掛かって死んでいた。こちらも数日が経過している。迷彩服の左胸のポケットに弾痕と大量の血を噴出した跡があるが、拳銃は机の上の中央にあり、自決した後に本人が置いたにしては不自然だった。
結局、自衛隊が網走市を包囲したのを見てロシア兵たちが軍律で降伏を認められないエロモスキー大佐を殺害して投降し始めたのだ。この女性兵士は単なる巻き添えなのかエロモスキー大佐と特別な関係にあって反発を買っていたのかは判らないが、ロシア兵は同僚も凌辱することは確認できた。やはり戦闘を生業とする軍人は野性動物に近くその群れに加わった女性は獲物に為らざるを得ないようだ。
- 2023/07/05(水) 15:23:27|
- 夜の連続小説9
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