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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

7月2日・軍縮はしたけれど・・・山梨半造陸軍大臣の命日

昭和19(1944)年の7月2日は第1次世界大戦後のワシントン海軍軍縮条約に調印した加藤友三郎大将の内閣で陸軍史上初の軍縮を実行した山梨半造陸軍大臣の命日です。81歳でした。
海軍ではワシントンとロンドンの軍縮条約を推進した条約派と腹癒せに猛訓練に明け暮れた艦隊派が激しく対立しましたが、陸軍では山梨軍縮に続いて加藤高明内閣でも大正14(1925)年に宇垣一成陸軍大臣が軍縮を実施しました。規模としては山梨軍縮が将校2200人、准尉以下の兵が6万人、軍馬1万3千頭の削減だったのに対して宇垣軍縮は将校1200人、准尉以下の兵は3万3千人、軍馬は6千頭に留まりました。
ヨーロッパの陸軍の軍縮には第1次世界大戦での塹壕戦の発展と戦車や飛行機の登場によってこれまでのように騎兵が突進し、歩兵が横一線に突撃して敵陣地を占領する基本戦術が一転したため不要になった旧態依然の戦力を削減する目的もあったのですが、日本陸軍では織田信長公の馬防柵の中で筒先を並べている鉄砲3000丁に正面攻撃を強行した武田騎馬隊の惨劇に学ぶことなく難攻不落の旅順要塞に肉弾攻撃を繰り返した乃木希典愚将の大失策を英雄譚にしていて兵力を削減する代替えに新兵器や新戦術の開発に力を注ぐ科学的発想は生まれませんでした。
ところが敗戦後は軍縮が賞賛されるようになり、海軍では自ら現出させた戦力の劣勢を自覚していた条約派が対米開戦に反対したこともあって英雄視されましたが、陸軍ではその後の政治的立ち回りから宇垣陸軍大臣の方が知名度が高く、山梨大将=陸軍大臣の名と業績を知る者は少数派です。
山梨大将は元治元(1864)年に現在の神奈川県平塚市で生まれ、明治18(1886)年に教育制度が確立する前の陸軍士官学校に旧8期生として入営しました。同期には山口陸軍閥の残滓・田中義一大将・陸軍大臣・首相がいます。修了後は青森の歩兵第5連隊に配属され、明治22(1892)年には田中大将を含む陸軍士官学校の同期の将帥たちと陸軍大学校8期生として入校しています。
そして卒業後に勃発した日清戦争に出征して歩兵中隊長と第2軍司令官の大山巌大将の副官を経験し、帰還後は参謀本部員兼陸軍大学校教官、ドイツ駐在武官副官、陸軍大学校教官などで10年間を過ごして日露戦争では奥保鞏大将の第2軍を中心に参謀として活動しました。その後はオーストリアとドイツの駐在武官を経て陸軍大学校幹事、現在の三重県久居駐屯地の歩兵第51連隊長、明治44(1911)年に少将に昇任して歩兵第30旅団長、歩兵第1旅団長を歴任し、第1次世界大戦では第18師団参謀長として青島攻略戦に出征しています。
そして大正10(1921)年に原敬内閣で陸軍大臣に就任すると高橋是清内閣、加藤友三郎内閣でも留任して大正11(1922)年8月と翌年4月の2回軍縮を実施しました。しかし、陸軍機密費横領問題で同期の田中大将と共に告発され、朝鮮総督に就任した直後にソウル市内への出店を目論む米穀業者からの贈賄疑獄が発覚して本人は不起訴・無罪になったものの金銭がらみの不祥事が相次いだため軍縮の功績は霧散してしまいました。
  1. 2023/07/05(水) 15:24:28|
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