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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

7月3日・イスラエル軍によるエンテベ空港奇襲作戦

11976年7月3日にイスラエル軍の第1空挺旅団と第1ゴラニ旅団に対テロ特殊部隊のサイェレット・マトカムを加えた約100名がウガンダのエンテベ空港を襲撃してハイジャックされたエール・フランス機に搭乗していたイスラエル人とユダヤ人の人質102人(3人を誤認射殺、1名は病院に入院中)を救出しました。
事件は6月27日にイスラエルのテルアビブ空港kからギリシャのアテネ空港経由でパリ空港に向かっていたエール・フランスのエアバスA300がパレスチナ人2人と西ドイツ人2人のハイジャック犯に乗っ取られ、リビアのべニア空港経由でウガンダのエンテベ空港に着陸したことから始まりました。
当時のウガンダのイディ・アミン大統領は前政権の親ソ容共外交を覆すためアメリカやイギリスだけでなくイスラエルにまで接近しましたが軍事独裁国家に対する嫌悪感から人権蹂躙や環境破壊、アフリカの内戦への関与などが発覚して関係は急速に冷めてイスラム教徒としてイスラエルを敵視するようになっていました。
このためエンテベ空港ではウガンダ政府が3名の共犯者を合流させて256人の乗客からイスラエル人とユダヤ人の106人を分けて空港のターミナルビルに監禁すると周囲を武装したウガンダ軍が警備しました。そしてエール・フランスが送った救出便で解放された人質を出国させたことで事態は国家がらみの人質事件の様相を呈して犯人はイスラエルで拘束されている40人だけでなくドイツやフランスで収監されているテロリストの解放まで要求して応じなければ人質を殺害すると脅迫したのです。
これを受けてイスラエルのイツハク・ラビン政権では外交交渉と同時進行で軍による救出作戦の研究に着手しました。するとエンテベ空港のターミナルビルを建設したイスラエルの建設業者が設計図を提供し、解放された人質がハイジャック犯やウガンダ兵の武装と配置や交代の間隔などを詳細に証言したため作戦は極めて具体的になり実行性が高まり、外交交渉が行き詰まっていたラビン首相が実行を決断しました。
作戦は7月3日にイスラエル軍のCー130輸送機4機で出発し、敵対するサウジアラビアなどの監視レーダーを避けながら紅海、エチオピアからアフリカ大陸を南下して8時間後の現地時間の深夜1時過ぎに1号機がエンテベ空港に強行着陸しました。1号機にはアミン大統領の専用車と同じ型の黒塗りのベンツが乗せられていてこれでターミナルビルに接近する策略でした。ところが警備のウガンダ兵が敬礼しようと近づいたため発砲してそこから銃撃戦が始まったのです。それでも着陸から3分後にはハイジャック犯7名を射殺して管制塔などを制圧、戦闘機の破壊を完了し、ヘブライ語での「伏せろ」と言う指示が理解できず誤認射殺された3人を除く人質102人を救出しました。ところが駆け付けたウガンダ軍との銃撃戦が本格化すると劣勢になりましたがそこに残りの3機が着陸して形勢回復、1号機の着陸から53分後に脱出したのです。
この作戦でイスラエル側の犠牲は人質4人(入院していたイスラエル人もアミン大統領の命令で射殺された)と指揮官のヨナタン・ネタニエフ中佐が戦死しただけでしたがウガンダ側はハイジャック犯7人とウガンダ軍が数十人戦死していて救出作戦としては1年後の西ドイツ国境警備隊のGSG9に比べてかなり手荒です。
  1. 2023/07/06(木) 17:04:14|
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