「これで2階は満室だな」「教室に10人ずつなら東北の震災の時の避難所よりも待遇が良いですよ」江団別の小中学校では網走からトラックで送られてくるロシア軍の捕虜45名の受け入れ準備を進めていた。江団別小中学校の校舎は2階建てなので少しでも逃亡の難度が高い2階を居室にしている。これまでは47名だったが士官8名はパイロットと地上部隊を別室にしているので6室使っていた。今後、総員92名を小中学校の9学年が入っている2階の教室に振り分ければ単純計算で各室10人強になる。それでも東北地区太平洋沖地震の巨大津波で集落の家屋が全壊しながら奇跡的に生き残った被災者たちが生活していた学校の避難所に比べればはるかに余裕がある。その点、マスコミは熊本の震災の時に「避難所ではプライバシーが確保できない」と批判していたので捕虜収容所でも同じことを言い出しかねないから取材は拒否した方が得策かも知れない。
「今のところウチの隊員の方が倍いるから監視が行き届いているが92名では大差なくなる。そうなると脱走や暴動が起こる可能性も否定できない。ところが兆候を掴もうにもロシア語が分からなくては話にならん」教室にマット代わりの段ボール箱を敷き、枕と毛布を配る作業を指揮している森田予備2曹に責任者の予備1曹が声をかけた。現場の即応予備自衛官たちは捕虜に起床から消灯までの生活を指導し、農作業を指揮するのに航空自衛隊の語学要員に作ってもらった片仮名の台本を読んでいるが、それでも想定外の質問が出るので簡単なロシア語を覚え、身振り手振りによる意思疎通にも熟練してきている。しかし、脱走や暴動の相談を監視している側に漏らすはずがなく、人数が揃えば何を企むか分かったものではない。
「やはり銃で脅すしかなないですね。ジュネーブ条約でも脱走の阻止や犯罪の取り締まり、規律の維持のために武器を使用し、状況によっては射殺することも禁止していません」予備1曹に説明しながら森田予備2曹は自分が稚内で第3高射群の展開地に侵入しようとしたロシア・中国の工作員を射殺したことを思い出した。あの時は少なからず罪の意識を抱いていたが同時期に根室に展開していた第6高射群の展開地が工作員に破壊され、装備品だけでなく隊員も全滅したことを知り、実戦の冷酷な現実を噛み締めながら戦功として自分を納得させた。
その後も稚内を橋頭保にするため地上部隊を乗せて襲来したロシア軍のヘリコプターを春木予備3曹と共に携帯式地対空ミサイルで多数撃墜した。戦闘が休止した後、稚内の海岸には爆発した大型輸送ヘリコプターの機体の残骸と一緒に搭乗していた兵士たちの遺骸が打ち上げられていた。それを収容して埋葬する作業に当たっている航空自衛隊の隊員たちを見ていても森田予備は特別な感傷は抱かなかった。あの時、森田予備2曹の中では「戦争で殺すのは敵であって人間ではない」と言う父・森田敬作定年2佐の教えが天からの啓示のように響いていて隣りに立つ春木予備3曹に語り聞かせていた。それが自衛隊の本務なのだ。
「それでも暴動を起こすとなると警備の兵隊から武器を奪うのが常套手段だ。農場作業中なら武器になる農具は事欠かない。ニコニコ笑いながら近づいてきて鎌で首筋を切りつけられれば一巻の終わりだ。銃を奪われれば後は蜂起開始だぞ」「だから作業の指揮はロシア軍の最上位者に任せて我々は銃を構えながら遠巻きに監視することに徹しなければいけません。責任者にノルマを与えるんです」「自衛隊の美徳も通用しないんだな」森田予備2曹の見解に予備1曹は残念そうに答えた。名寄駐屯地の第3普通科連隊を主体とする部隊がイラクの復興支援に派遣された時、現地の住民たちは先に取材に来ていた日本のマスコミから「自衛隊はアメリカ軍の手先」と吹き込まれていて内心では反発していた(カンボジアPKOでも同様の妨害工作を繰り広げていた)。ところが宿営地の建設工事が始まると状況は一転した。他国の軍では現地人を雇うとノルマを与えてそれが達成できないと報酬を削るのが常識だが、自衛隊では現地人の労働者が「それでは報酬をもらえなくなる」と文句を言うほど自衛官が率先して作業に当たり、間もなく「苦楽を共にする」と言う日本的仲間意識が深く浸透したのだ。だから自衛隊が撤収する時には反対運動が起こり、それが無理だと判ると感謝のデモ行進が繰り返された。この捕虜収容所でも第3普通科連隊出身者が伝授したイラク派遣での経験を実践して成果を上げているが、それが今後も通用すると言う確証はない。むしろ逆の可能性が高まっている。
「ロシア軍は日露戦争では紳士的に振る舞いましたが、ロシア革命後の内戦ではクリミア戦争以来の残虐性を発揮しています。第2次世界大戦末期のベルリンや満州と樺太への侵攻では野獣そのものでした。それをチェチェンや南オセチア、ウクライナでも継続しているんですから油断してはいけません。本当ならシベリア抑留で日本兵が味わった劣悪な処遇を再現したいくらいです」森田予備2曹はまだ実戦=殺人を経験していない予備1曹に敵愾心を与えるために戦史講座を開講した。このロシア軍とソビエト連邦軍に関する知識は自衛隊に入隊して実家に帰省するたびに父の書棚の本を読んで学んだものだが、普通の陸曹ではここまでの軍事知識は持ち合わせていない。北海道防衛に任ずる現代の屯田兵を志した森田予備2曹とは違う理由と経緯で即応予備自衛官になり、普段は会社勤めしている良き家庭人の予備1曹は黙って聞くしかなかった。
- 2023/07/07(金) 15:23:26|
- 夜の連続小説9
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