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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

7月7日・奈良帝=平城(へいぜい)天皇が崩御した。

奈良・平城宮の太極殿跡の真北に宮内庁が公示する平城天皇陵があり、この天皇の行状を知っていた私はU=部外大卒課程のWAFの候補生と大和西大寺駅前で一緒に飲んで基地に帰る途中で軽く悪さをしたことがありました(本人にとっては軽くなかったらしい)。ところが昭和37(1962)年から翌年の発掘調査で日本最大の円墳とされていた平城天皇陵は平城宮を造営した時に前方後円墳の方形の部分を撤去したものと判明していたそうで宮内庁が平城天皇の陵墓との指定を解除しないのは神話を認めない学術調査を無視する官庁としての基本姿勢のようです。そんな平城天皇は天長元(824)年の明日7月7日に崩御しました。満年齢では49歳と11ヶ月でした。
平城天皇は宝亀5(774)年に桓武天皇の第1皇子として平城京で生まれました。延暦4(785)年に叔父の早良皇子が藤原種継さん暗殺に連座して廃位されたため立太子しました。ところが平城天皇は生来病弱だった上、天皇としては行政手腕が群を抜いていた父帝との関係は微妙で、30歳頃から幼くして入内した妻に付き添っていた母の藤原薬子(くすこ)さんと複雑怪奇なダブル不倫関係を持って父帝の不興を買い、延暦24(805)年には重篤に陥っていた父帝が一時的に恢復したため参内するように命じられても無視しました(最終的には周囲に半ば強制されて参内しましたが早々に退出しています)。
そして延暦25(8006)年に桓武天皇が崩御するとこれまでは猶予を置いていた践祚(皇位継承の儀式の即位とは別の手順)と改元を同日に行い、現在に至るまで先帝の崩御・譲位と践祚・改元を同日にして即位を後日とする端緒を作りました。ただし、平城天皇の場合は父帝に対する近親憎悪が動機だったようです。
即位後にやったことは先ず父帝によって解任されていた薬子さんを宮中の取次役の女官に復帰させながら夫=妻の父を太宰府に栄転させて不倫関係を公然化させました。平城天皇が平安遷都の延暦13(794)年に妻を亡くしてから再婚しなかったのは薬子さんとの淫靡な関係が理由だったとすれば墓前で「フリーン」の鐘ならぬ鈴くらい鳴らしても罰は当たらないと酔った頭で思いましたが葬られているのは別人でした(後で知った)。
その一方で桓武天皇が押し進めた国家的大事業が財政と中・下級役人の負担になっているからと官職の統廃合や儀式と事業の縮小と廃止を断行しています。ところが兄妹相姦の噂がある薬子さんの兄が権勢を奮うようになると民心は離れ、大同4(809)年に病のため在位3年で弟の嵯峨天皇に譲位して上皇になりました。
その後は病の恢復を待って平城京に移住すると薬子兄妹の策謀に乗せられて平城再遷都を通達しましたが、嵯峨天皇が薬子さんの官位を剝奪して拘束しようとたため東国に逃れようとしたものの征夷大将軍・坂上田村麻呂さんに阻止され、平城上皇は出家して薬子さんは腹毒自害しました。また嵯峨天皇は平城天皇の第一皇子を皇太子にしていましたが薬子さんの孫に当ることから廃位して後に淳和天皇となる弟を立太子させています。
それでも流石は桓武天皇の皇子兄弟らしく嵯峨天皇は寛大で、平城上皇の太上天皇の称号を剝奪することなく平城京に住み続けることを認め、奈良への行幸の折には先帝に対する儀礼を尽くし、廃位された第一皇子と弟の皇子は太宰府に遷されたものの親王の位を与えています。ちなみに平城天皇は死後に贈られた追号です。
  1. 2023/07/07(金) 15:27:06|
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