捕虜45名をトラック2台に分乗させて網走から旭川に向かう第2師団が派遣した車両隊は出発から1時間後に無人になっている休憩所の駐車場に停車した。経路は国道39号線の北見市と山川町経由で北海道の主峰・大雪山旭岳の麓を通って横断することになる。先導車と後尾車の2台のパジェロを含む4台の車両は広い駐車場に20メートル以上の間隔を取って停車した。周囲は深い針葉樹林だ。
「エト・ペレリブ・ナ・トゥアレット(トイレ休憩だ)」停車と同時にジープの後席から6人の隊員が下りてトラックを取り囲んで銃を構えた。続いて指揮官が2台のトラックの後方の中央に立ち、台本棒読みのロシア語で声をかけた。
第2師団司令部では捕虜の移送の経験はおろか実施要領に関する知識を有する幕僚がおらず在日アメリカ軍に問い合わせた。すると何よりも逃走防止を最優先して常に銃で威嚇しながら兆候を察すれば躊躇なく発砲することを助言された。これを受けて第2師団では第52普通科連隊第2中隊から実戦経験がある即応予備自衛官を護衛として派遣した。当然、森田謙作予備2曹も選ばれている。
「建物は閉まっている。トイレは使用不能だ。立ちションで済ませろ」ロシア兵たちはトラックから下りると文化人らしくトイレを使おうと建物の入り口に向かったが即応予備自衛官たちが先回りして阻止した。自然環境が厳しい北海道では屋外に独立したトイレを設置することが難しく店舗内のトイレを大きくしていることが多い。即応予備自衛官たちはこの説明のロシア語が判らなかったが、捕虜収容所で覚えたトイレのロシア語・トゥアレットを連呼しながら周囲の雑木林を指すと肩をすくめて苦笑しながら連れションを始めた。その背後で即応予備自衛官たちは切り替え軸部を「3(3発連射)」に合わせて引き金に指を掛けている。即応予備自衛官たちは実戦経験があると言っても森田予備2曹を除けば襲来するヘリコプターを携帯式地対空ミサイルで撃墜しただけで生身の人間を殺害したことはない。むしろ死んだ場面を見ていないことを心理的に自分が人間を殺害した事実を否定する自己弁護に利用していることが多い。その意味では逃走や反抗に直面して即座に発砲できるか判らない。
キーン、「おッ、空自の戦闘機だな。手配通り上空で監視に当たってくれてる」放尿を終えたロシア兵たちをトラックに乗せると先導車の即応予備自衛官3名がパジェロに戻り、後尾車の3名が2台のトラックの後ろと中央に立って銃を構えた。すると高い針葉樹の葉が重く茂った枝の間に見える青い空からジェット音が響いてきた。空を見上げて予備1曹が漏らした独り言が森田予備2曹にも聞こえた。第2師団では捕虜が収容所に収監されて事情聴取を受けると内部情報が漏洩することになるため、ロシア軍が戦闘機で攻撃してくるのではないかと言う懸念を抱いていた。航空自衛隊は現段階も北海道空域の制空権を維持しているが道北では千歳基地から発進する要撃機よりも樺太から襲来する敵機の方が所要時間が短く危険性は決して低くない。そこで上空からの監視を要請したのだ。トラックの荷台の最後尾の席に座っている士官が幌から顔を出して空を見上げた時、車両隊は出発した。士官待遇としてはパジェロを配車するべきかも知れないが手持ちに余裕がなかった。
「ドアノフ大尉が網走で投降したロシア軍の最上位者、いわば指揮官だね」「ダー(はい)」江団別の捕虜収容所では第119地区警務隊長の増田2佐以下の警務官たちが待っていた。食事は移動中に網走で第25普通科連隊が渡した携帯食を食べているので心配ない。携帯してきた荷物を自分の居室に運べば遠慮なく取り調べを始められる。増田2佐ともう1人の幹部警務官は2人の士官、陸曹の警務官が下士官と兵を担当する。ジューネーブ条約で取り調べに立ち会わせることを規定している通訳として千歳基地から語学要員が増員されている。
「網走ではかなり苦労したようだね」「ダー、この世の地獄を味わいました。ダンテの・・・の世界でした」増田2佐の質問にドアノフ大尉は虚ろな目をして答えた。しかし、通訳はダンテの「神曲」に関する予備知識がなく、本の題名がイタリア語だったため通訳できなかった。それでも増田2佐は「ロシア人が閻魔大王の裁きを受けて地獄に墜とされる訳がない」と首をひねっていた。ちなみのダンテの神曲に登場する地獄の裁判人はミノースと言う。ついでに三途の川に相当するアケローン川がこの世とあの世を隔てている。
「網走の市役所で上陸部隊指揮官のエロモスキー大佐が射殺体になって発見されているが実行犯に心当たりはないか」「ニエート(いいえ)、大佐は自決したと報告を受けています。我が軍では降伏は国家への反逆として絶対に許されませんから回復の見込みが立たない戦況と兵たちの苦境を救うために自ら死ぬことで国家に対して謝罪したんです」「そうかね」増田2佐は第25普通科連隊から市役所内への突入と制圧に関する詳細な報告を受けているが、市長室の前で女性兵士が集団暴行を受けていることから投降を要求する下士官や兵が殺害したと推理していた。女性兵士は犯行現場に居合わせたためついでに被害を受けたのだろう。。とは言えドアノフ大尉を含む士官が降伏の要求を拒否したエロモスキー大佐を殺害することはあっても女性兵士の集団暴行に加わったとは考えられない。その一方で第25普通科連隊からは市街地の捜索で「明らかに殺害された女性兵士が食肉加工された遺骸が2体発見された」との報告も受けている。そちらについては陸曹たちが話を聞いているところだ。
- 2023/07/08(土) 15:49:44|
- 夜の連続小説9
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