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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

7月7日・北朝の始祖・光厳天皇が崩御した。

北朝暦の貞治3(1313)年=南朝暦の正平19年の7月7日に一度は逃亡する後醍醐天皇から践祚を受け、3年間は天皇として玉座を守っていながら国家を私物化する後醍醐天皇と敵対したことで血統上の子孫である明治天皇に皇統譜から排除された北朝の始祖・光厳天皇が崩御しました。満年齢で51歳と4日でした。
江戸時代から戦前にかけての日本史は幕末の討幕謀反の思想的根拠になった水戸学の尊皇攘夷の狂気によって大きく歪められていましたが、天皇が2人在位していた南北朝については3種の神器の保持と言う形式的な理由によって実際に国家を統治していた幕府側の北朝ではなく逃亡した敗者に過ぎなかった南朝を正当とする誤りを犯しています。さらに現在の皇室は南北朝の統一が北に南が合流する形になったため統一後初代の後小松天皇(=一休さんのパパ)は光厳天皇の曾孫であって以降も血統は一貫しているので水戸学の主張は皇室の正当性を否定していることに他なりません。
そんな光厳天皇は正和2(1313)年に後伏見天皇の第3皇子として生まれました。幼い頃から持明院統(後嵯峨天皇の皇子による分列)の嫡流として叔父の花園天皇から英才教育を受け、嘉暦元(1326)年には大覚寺統(同前)の後醍醐天皇の皇太子として立太子しました。すると後醍醐天皇が鎌倉期随一の英君とされる父帝・後宇多天皇の名を汚し、後鳥羽上皇に倣ったような討幕を画策するようになり、元弘元(1331)年には謀略が発覚したため逃亡時に践祚を受け、即位しました。ところが在位3年目の正慶2(1333)年頃から鎌倉執権・北条高時さんが御家人の離反を招いていることにつけ入って後醍醐上皇が攻勢に転じると避難していた六波羅探題が陥落して近江国で拘束され、後醍醐上皇が復位するために廃位させられてしまいました。
それでも建武3(1336)年に後醍醐天皇を見限った足利尊氏さんに新田義貞さんの追討を命ずる院宣を与え、これが成功すると後醍醐天皇の平安復古の時代錯誤と個人的好嫌による処遇であらゆる臣民から愛想をつかされていた建武政権は即座に崩壊して吉野に逃亡したため譲位はなかったものの国家の頂に立つ地位に復帰したのです。そして上皇として弟の光明天皇を即位させて吉野の後醍醐天皇との南北朝を開始しました。21
光厳上皇は院政を敷いて創設期の足利幕府の行政に積極的に関与する一方で合戦によって荒廃した京都の再興を進め、庶民を救済しただけでなく和歌に優れて自ら勅撰和歌集も編纂しました。こうした多くの業績は「貞和徳政」として高く評価されています。
ところが観応2(1351)年に足利家の内紛・観応の擾乱が発生すると南朝に京都を奪われて足利尊氏さんが降伏したため北朝は廃止、光厳上皇は吉野の奥地に幽閉されてしまいました。しかし、間もなく南朝は追い出されて光厳上皇も救出されますが、後に後光厳天皇になる皇子への践祚が進まないことに失望して臨済宗で出家するとそれからは真摯に修行に励み、やがて允可を受ける境地に至ったようです。
それにしても松下村塾で吉田寅次郎(敬称不要)が吹聴していた水戸学に洗脳された毛利藩閥に屈服して自分の血統と祖先の業績を否定する処置を講じた明治天皇は所詮は薩長土肥=反乱軍の操り人形だったのです。
  1. 2023/07/08(土) 15:50:57|
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