昭和58(1983)年の明日7月13日に右翼と国家神道、軍国主義者がどのように賛美しても事実としては帝国陸海軍(特に海軍)が組織的に若者たちに自死を強要した組織的犯罪である神風(しんぷう)特別攻撃隊を創設・推進した首謀者の1人である猪口(敗戦後は詫間に改姓した)力平大佐が80歳で死にました。
猪口大佐は日露開戦の前年の明治36(1903Z)年に鳥取県鳥取市の大工の棟梁の2男として生まれました。6歳年上の兄も海軍軍人で戦艦・武蔵の艦長としてレイテ湾突入作戦に参戦して戦死しています。
大正13(1924)年に海軍兵学校52期生を修了しましたが同期には高松宮宜仁皇族大佐、庵原貢大佐=後の海上幕僚長、自己演出の権化・源田実(敬称・肩書不要)、敗戦後は日蓮宗の坊主になった玉井浅一中佐、真珠湾で「トラトラトラ」を打電した淵田実津雄大佐などがいました。卒業後は砲術の世界的権威になった兄と同じく砲術士官になり、昭和9(1934)年に海軍兵学校の分隊長からは海軍大学校に入校しました。兄は砲術学校の教官を何度も勤め、教頭から戦艦・武蔵の艦長に就任しましたが、弟は海軍兵学校で2回勤務しています。
そんな猪口少佐は中佐昇任後の第7戦隊参謀と海軍省人事局以降は航空部隊に配属されるようになり、昭和18(1943)年に横須賀航空隊付、昭和19(1944)年2月に南方戦線の偵察部隊の第153航空隊司令(当初は航空機を持たず陸軍からの情報の分析が主だった)、同年7月に中国方面の実体はない水上偵察機部隊の第23航空戦隊参謀、そして同年8月にフィリピンの第1航空艦隊首席参謀に着任して10月に鬼神・大西瀧次郎中将を司令官として迎えたのです。
神風(しんぷう)特別攻撃隊については海軍の搭乗員の先駆者である大西中将が連合艦隊の残存戦力を投入する起死回生の決戦である捷1号作戦で航空戦力が最大の貢献を果たす手段として発案したと言われていますが、大西中将が着任する以前に猪口大佐とフィリピンの第201航空隊副長だった玉井浅一中佐、東京の軍令部の同期・源田の間で爆装した零式艦上戦闘機による敵艦への体当たり戦術について議論する無線の電文が残されていることから「大西中将が着任した時点で作戦の骨格は固まっていて、それを搭乗員に絶大な人気がある大西中将の名前で発令した」と言う新説が提唱されています。
実際、大西中将が着任して特別攻撃隊の編成を命じてからは指揮官を海軍兵学校出身で玉井中佐と同じ愛媛県人の関行雄大尉として部隊名は猪口大佐の故郷にある町道場から採った「神風(しんぷう」)、各戦闘隊名は本居宣長さんの和歌から「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」とすることなど矢継ぎ早に決まっていった一方でこの異常で非情な作戦に中央=軍令部から疑義が呈されなかったことからも新説の真実味が感じられます。
敗戦後、大西中将は無条件降伏に反対して暴動騒ぎを起こした後、8月16日に自刃して果てますが、猪口大佐は生きて著述と講演活動に励み、「神風(しんぷう)特別攻撃隊は搭乗員の懇願によって編成が決定し、それ以降も殺到する志願者から選考して出撃させていた」と言う自己弁護を続けました。ちなみに源田は「特攻作戦に反対して松山に精鋭パイロットを集めて紫電改部隊を創設した」と責任逃れしていました。
- 2023/07/12(水) 15:36:57|
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