1789年の明日7月14日にパリ東部の要塞としての機能も兼ね備えていたバスティーユ監獄が民衆によって陥落させられた事件が発生して、現在も凱旋門からシャンデリゼ通りで行われる軍事パレードが有名な革命記念日になっています。
野僧の世代ではフランス革命を少女漫画とテレビのアニメ、何よりも宝塚歌劇になった「ベルサイユのばら」で学んだと言う人が多いですが当時の歴史の授業では決起した民衆がバスティーユ監獄に収監されている政治囚を救出しようと押しかけ守備隊と戦闘になったと教えていて、「ベルサイユのばら」でもそれを踏襲した上で主人公の男装の麗人・オスカルが国王一家を守る近衛兵の士官でありながら民衆側に立ち、襲撃を指揮している最中に監獄側からの銃撃を浴びて戦死することになっていました。
しかし、近年の研究では事件当時、監獄内に収監されていた政治囚は皆無で文書偽造犯が4人、精神異常者が2人と素行が悪い伯爵1人の老人7人だけでした。変質的猥褻小説で有名なマルキ・ド・サドさんも収監されていましたが10日前に移送されていました。つまり襲撃の目的は別にあったのです。
襲撃の発端はこの年の5月5日に約70年間開催されていなかった聖職者と貴族、民衆の各階層の代表による三部会が召集されると民衆代表はルイ15世の治世下で発展を遂げていたフランスが代替わりと同時に財政難に陥り、重税が課されていることを問題にしましたが、宗教者代表はバチカンによる宗教支配からの離脱、貴族代表は上流階層の政治問題を持ち出して紛糾し、その後も空転を続けたため民衆代表は6月17日に国民会議を設立して宗教者と貴族階級にも参加を呼びかけたのです。これに対して国王の弟が議場を軍で封鎖したため6月20日に隣接する球戯場で3者の代表が「憲法制定まで会議を継続する」と誓い大同団結が成立しました。
この動きを国王の側近たちは当時は隣国・ドイツまで領有していたオーストリア帝国の皇女である王妃を担ぎ上げて軍事介入を臭わせて恫喝しましたが、聖職者と貴族の多くが合流したため国王が独断で国民会議を承認しました。しかし、王妃を担ぐ側近たちは武力鎮圧を画策してスイス人歩兵連隊やドイツ人騎兵連隊など2万人の精鋭部隊をベルサイユ周辺に集結させたので危機感を抱いた民衆側も武装することを決め、現在はナポレオン皇帝の棺が安置されているパリ市内の軍病院を襲撃して保管してある傷病兵の武器を奪いましたが弾薬は足りず、そこで次に狙ったのが要塞でもあったバスティーユ監獄でした。
当初は民衆代表が武装する目的(自衛と治安維持)を説明して弾薬を引き渡すように要求しましたが監獄の長官が拒否し、2度目の交渉が長引いて苛立ちから興奮状態になった民衆が乱入し始めたため守備隊が発砲して戦闘が始まったのです。この報告を受けた国王が「レボルート(暴動)か」と確認したのに側近が「いいえ、レボルーション(革命)です」と答えたのが「革命」の造語・発祥とも言われています。
監獄が陥落すると長官以下の主要幹部はパリ市庁舎に連行されて次々に虐殺され、生首は槍に刺して広場に晒されました。それがパリ市長や知事などの要人に広がり、やがて国王夫婦も断頭台にかけられました。
- 2023/07/13(木) 14:17:38|
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