fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

7月15日・唯一、平成まで生きたA級戦犯・鈴木貞一中将の命日

現人神(あらひとがみ)の御代が終わり、日本が平成に堕した1989年の明日7月15日に敗戦後の極東国際軍事裁判所=東京裁判のA級戦犯では唯一生き残っていた鈴木貞一中将が死にました。100歳でした。
鈴木中将は明治21(1888)年に千葉県山武郡芝山町で地主の長男として生まれました。私塾だった成蹊学舎から旧制・京北中学校に進み、満州の開拓を志して東京帝国大学農学部を受験するつもりでしたが腕試しの陸軍士官学校に合格すると周囲の強い勧めを受けて22期生として入営することになりました。同期には敗戦時のニューギニア方面第18軍司令官だった安達二十三中将、日本陸軍の晩節を汚しまくった牟田口廉也中将、陸軍省内で永田鉄山軍務局長を斬殺した相沢三郎中佐、第一次上海事変で負傷して意識を失い、国民党軍に保護されて捕虜になったことを軍内外から非難されて自決した空閑昇少佐、水戸徳川家の13代当主で大日本史を完成させた徳川圀順少佐、何よりも鈴木中将、四方諒二少将と共に「東條の三奸」と指弾された加藤泊治郎中将がいました(木村兵太郎大将、佐藤賢了大将、真田穣一郎少将、赤松貞雄大佐=秘書官の「四愚」も付く)。
明治43(1910)年に士官学校を修了すると豊橋の歩兵第18連隊に配属され、大正3(1914)年には陸軍大学校29期生として入校しています。大正6(1917)年の卒業後は参謀本部勤務になり、これ以降は箔付けに何度か部隊長の席に腰かけただけで(部隊配置になっても別の任務を負っていた)、事務室勤務ばかりのため「背広を着た軍人」と仇名されました。しかし、実際は情報政治工作員として大正9(1920)年にロシア革命後の内戦で共産党軍がニコライエフクスで住民を大量虐殺した事件の調査や張作霖さんと蒋介石さんに対する調停工作、満州蒙古問題でのイギリス出張と駐在などの対外工作で暗躍しました。
当然、政治的立ち回りに優れ、昭和6(1931)年に満州事変が勃発すると陸軍省軍務局内に満蒙班を設置し、責任者として関東軍と渡り合い独断で陸軍の満州政策を差配しました。この際、リットン調査団を派遣した国際連盟に反発して陸軍内で脱退論を扇動しました。
昭和11(1936)年の2・26事件では山下奉文中将と共に反乱軍将校の説得に当たりましたが、事件後は皇道派の衰退を見越して巧みに統制派に鞍替え、満州事変での関東軍の意向に沿った処理で信任を得ていた東條英機政権(事件当時の関東軍参謀長)でも権力を奮う基盤を構築しています。
昭和12(1937)年以降は陸軍の操縦手として近衛文麿内閣に送り込まれ、昭和16(1941)年4月に予備役編入になりましたが同時に第2次近衛内閣の国務大臣兼企画院総裁に就任して東條内閣まで留任しています。
鈴木中将は東條内閣が対米英中戦争を決定した御前会議でABCD包囲網による経済封鎖で石油の輸入が困難になったことを理由に対米英開戦が不可避であることを強硬に主張したことでA級戦犯として起訴され、終身刑の判決を受けましたが昭和30(1955)年に仮釈放されました。
仮釈放後は昭和48(1973)年に千葉県の実家に転居して隠棲生活を送っていましたが90歳を過ぎてNHKの番組に出演した時もダンディな容姿や明晰な頭脳と鋭い舌鋒は全く衰えていなかったそうです。
  1. 2023/07/14(金) 14:37:18|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<続・振り向けばイエスタディ547 | ホーム | 続・振り向けばイエスタディ546>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/8548-8bec6520
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)