「すまんが、ここで停めてくれ」「車両の通行がないですから良いですけど何事ですか」翌日も警務隊長が同行して警務車両で第2師団が捕虜収容所にしている江団別小中学校に向かった。私は旭川駐屯地の南門を出て右折したスタルヒン球場を過ぎたところで運転手に声をかけた。市民が避難しているため道路を走っているのは自衛隊の車両だけなので路側帯に寄せる必要もない状態だ。それでも運転手の陸曹はウインカーを出して左の歩道際に寄せた運転手はハザード・ランプを点灯させた。やはり警務官は常に道路法規を厳守するようだ。
「ここから慰霊碑に供養のお経を勤めようと思ってね・・・国家神道の施設に立ち入ることは避けるよ」助手席から振り返っている警務隊長に説明しながら私は後席から下りて歩道を北海道護国神社との境界線まで進んだ。後に続いた梢も隣りに立った。そこで線香に火を点けると歩道の街路樹の土に立てた。
ジャラジャラジャラジャラ、チーン、チーン。「我建超世願 必至無上道 斯願不満足 誓不成正覚・・・」数珠を揉み、手鐘(しゅけい)を打って勤めたのは浄土宗では四誓偈、浄土真宗では重誓偈(ちょうせいげ)と呼んでいる佛説無量寿経=大経の一節だ。220文字の四誓偈は262文字の般若心経と同様に丸暗記が容易で、濃縮された内容が長過ぎず短くもなく重宝する。毎朝聞いている梢も暗唱していた。
「大日本帝国陸軍歩兵第28連隊一木支隊、歩兵第89連隊の英霊各位追善供養のため・・・」チーン、「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」四誓偈に続いて浄土宗式に念佛を10回唱えると回向した。護国神社の境内にも屯田兵の慰霊碑はないようだが、北海道でも徴兵制度が始まって第7師団が設置されると志願制の屯田兵も編入されたので北鎮記念館裏の慰霊碑で大丈夫だろう。
「雪の進軍氷を踏んで どこが川やら道さえ知れず 馬は倒れる捨ててもおけず ここは何処ぞみな敵の国 ままよ大胆一服やれば 頼み少なや煙草が2本」「大悲円満無礙神呪、なむからたんのうとらやや・・・」続いて軍馬の供養になる。先ずは御詠歌の代わりに「雪の進軍」からだった。本当は「愛馬進軍歌」と言う軍国歌謡曲があるのだが旭川産の馬の霊にはこちらの方が響くと考えた。
「大悲円満無礙神呪」は馬頭観音に唱えた。実は阿弥陀如来の救済の対象は名を呼んだ者、救いを願った者とされているので動物は該当しない。そこで手を差し伸べてくれるのが馬頭観音だ。この経では観世音菩薩を「獅子王の如き勇者なり」と讃えているので馬頭観音への祈願には最適だろう。
「おん・あみりとう・どばんば・うんばった」最後は馬頭観音の真言を10回唱えた。ペットを飼ったことがない我が家では動物供養は勤めないので梢は聞いたことがない。私は家で飼っていた犬が死ぬと祖父の寺の裏庭に埋葬して念佛の代わりにこの真言を教えられた。
「どうしても護国神社の神域に立ち入らないんですね」「村の鎮守になら参らないことはないんだが、靖国と護国は国家神道の宗教支配を徹底するための施設だから立ち入れば社殿を放火したくなる。これはあくまでも感情の吐露であって犯行予告じゃあないよ」助手席の窓を開けて勤経を聞いていた警務隊長は私と梢が後席に座って発進させると呆れたように確認してきた。最後の念押しは警務隊長が相手では必要な処置だ。
「ここが2師団の捕虜収容所にしている江団別小中学校です」江団別町の集落は旭川市の市街地を迂回するように外れ、深い森に覆われた山に分け入った場所だった。小中学校は江団別町の中央で市役所の支所や郵便局、農協、NTTなどの公共施設だけがある集落の端にあり、鉄筋コンクリート2階建てだった。
「捕虜収容所の割に外柵が低くて簡単に脱走できそうだ。まさか対人地雷が設置されているんじゃあないだろうね」私の指摘に警務隊長は苦笑して首を振った。私も帰国後、新潟市内に潜入取材していたイギリス人記者がロシア軍に動員されている北朝鮮軍の宿営地で校庭に設置されていた対人地雷を作動させて死亡した事件は知っている。その一方で日本が1997年12月3日に「対人地雷の使用、貯蔵、生産及び移譲の禁止並びに破棄に関する条約」に調印して1999年3月1日に発効させたのは前の仕事の常識だった。
それにしても脱走を正当な権利とする外国軍捕虜の収容施設の外柵が大人の腰までの高さしかない子供が怪我をしないように配慮した安全な構造では阻止の役に立たないのは明らかだ。航空自衛隊の基地警備で遠隔誘導の指向式散弾地雷・クレイモアが威力を発揮しているようなのであれを横向きに設置して異常発見時に作動させれば延長線上の不審者を死傷させられるはずだ。
「モリヤ検事、こちらが第52普通科連隊第2中隊長の藤井3佐です」「藤井3佐、モリヤ検事は捕虜の脱走防止にどのような対策を講じているかを知りたいそうだ」校門に立っている歩哨が無線で連絡したのか正面玄関では第2中隊長が待っていた。すると警務隊長は挨拶も抜きに私の疑問に対する回答を促した。
「捕虜たちに脱走を発見すれば発砲すると警告した上で夜間は狙撃手を屋上に配置して監視に当たらせています。今のところ脱走者は出ていません」これは戦争法上、合法で国際常識な対応だ。
- 2023/07/19(水) 15:06:09|
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