「しかし、その程度の威嚇でロシア軍が素直に服従するとは思えませんな」正面玄関から中隊長室に使っているらしい面接用の狭い部屋へ移動しながら質疑応答は続いた。監視に当たる兵士が実弾を込めた銃を持っていて怪しい動きを見れば発砲するのは海外では常識であり、それにロシア兵が脅えて絶対服従しているとは思えない。
「モリヤ検事はロシア軍の捕虜になった経験がありますからね」「そうでしたね。あの時はまだ現役でしたか」「いいえ、退役した後の文民でした」私は異常に捕虜を恥じる日本人的な精神性は持ち合わせていないが、日本人の乗客の中でただ1人解放されてオランダに帰りながらロシア軍の戦争犯罪を告発することができなかった無力さは国際刑事裁判所の検察官としての自己を侮蔑している。警務隊長としては第2中隊長に私の経歴を再確認させるつもりだったのかも知れないが不用意な発言だったの間違いない。
「これは明け渡す時の清掃が大変だ」私が重苦しい顔になったのを見て隣りを歩く梢が呟いた。学校では生徒や児童は玄関で上履きに履き替えるため校舎の中は綺麗だったはずだが、自衛隊やロシア軍の捕虜は靴を履いたまま歩き回るので廊下に靴の跡が無数について中央が黒く変色している。この発言で第2中隊長が校舎を管理する上での苦労話を始め、軽い気分で校舎内を見て回ることができた。校長室は旭川駐屯地司令の第2師団幕僚長が兼務している捕虜収容所長専用にしているそうだ。その捕虜収容所長は滅多に視察に来ないようだが戦時にも自衛隊式の気配りは変わらないらしい。
本来は面接用の中隊長室にはソファーの応接セットはなく、高学年用の机と椅子を向かい合わせに並べて4人掛けの小会議室にしてあった。そこに陸曹が第2中隊長が「札幌から配給されている」と説明した缶コーヒーを持ってきてそれぞれの机に配っていった。職員室で待機している運転手の警務官も飲んでいるはずだ。
「これは私の勝手な推理なんですけど、この収容所の待遇がロシア軍が失いたくないって思うほど素晴らしいんじゃあないですか」男3人が栓を開けてコーヒーを飲んだ後、ティッシュで口紅を落としてから飲んだ梢が珍しく自分の見解を口にした。この缶コーヒーは警務隊でも出されたので特に感動するような味ではないが、先ほど見てきた2階の教室は10人で使用していて床に段ボールを敷き、毛布5枚と東北方面隊以北で使用している掛け布団にシーツ2枚が配られていたが広さに快適さが感じられた。それは「捕虜の作業として清掃させている」と言うトイレやシャワー室、給食室、体育館などの付属施設も同様で、頭の中では映画「ビルマの竪琴」「戦場にかける橋」「戦場のメリークリスマス」「大脱走」などで描かれていた捕虜収容所と比べていた。
「網走に上陸したロシア軍は空海からの補給路を遮断されて戦死者の人肉まで食べる飢餓状態に陥っていました」「それも警務隊の報告書で見たよ。帝国陸海軍も太平洋の離島守備隊は同様の地獄絵図を描いたんだ。旭川の一木支隊は餓島と呼ばれたガダルカナル島に派遣されたが上陸して3日後に全滅しているから飢餓に陥る暇はなかっただろうけど」唐突に始まった私の戦史講座に第2中隊長は姿勢を正して聞き入ったが、警務隊長は昨日1日で人間性を理解したらしく耳だけを傾けて缶コーヒーを口にしていた。
今朝、慰霊碑に参ってきた一木支隊はガダルカナル島に上陸したアメリカ軍を過小評価していた大本営が占領された飛行場を奪還し、撃滅させるために派遣した。しかし、アメリカ軍の戦力は想像以上でミッドウェイ作戦の大敗から1ヶ月半後の昭和17年8月18日に上陸して後続部隊の到着を待ったが、20日にアメリカ艦隊の空襲を受けた日本海軍は反転して輸送を断念してしまった。ところが一木支隊の実力を過信した大本営は飛行場の奪還を強要したため進撃する途中の8月21日にイル川の渡河で一木清直大佐が戦死して全滅した。
「そんな惨状から快適な衣食住が提供される生活が与えられれば脱走は考えないかも知れないわ」「いや、外国軍にとって脱走は捕虜になった兵士に課せられた戦闘義務の1つだ。簡単に放棄することはできない。新潟での反転攻勢が始まるのを待って集団脱走や暴動を起こす計画を練っている可能性はある」梢は昨日、警務隊で網走市内で撮影された解体加工された人間の遺骸の写真を見ているので捕虜収容所を救済施設のように考えたのかも知れないが私は別の見解を示した。網走市内に潜入した第25普通科連隊の隊員が目撃した猟奇的に解体された女性兵士の遺骸は撮影されておらず、事案自体が立件されていないため私は警務隊本部ではなく統合幕僚監部の戦闘報告で読んだのだ。したがって梢は知らない。
「それにしてもこの捕虜収容所はジュネーブ条約が定める捕虜の待遇を完璧に近く実現していますね。ジュネーブ委員会の中立国視察を受ければ賞賛されるはずです」説明しながら私はロシア軍の極東の基地の捕虜収容所を思い出した。あそこは待遇ではなく女性の収監者2人を集団で凌辱した兵士たちの犯罪行為が問題だった。
「よほど戦争法に詳しい勉強家がいるんでしょう。会って話をしたいものです」「それが航空の警備課程を作った元教官の息子の2曹で、帰省するたびに英才教育を受けてきたらしいんです」「それって森田敬作だね」私の声が大きくなって警務隊長と第2中隊長はのけ反ったが梢は聞いたことがある名前に黙ってうなずいた。
- 2023/07/20(木) 13:52:58|
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