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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

続・振り向けばイエスタディ556

「ドアノフ大尉、君が網走への上陸部隊の生存者では最上位の士官だね」「ダー(はい)」一般空曹候補学生の同期の息子・森田予備2曹との面談は本人と再会したような気分になって検事としての公務で来ていることを忘れてしまった。それでも明日の稚内への現地調査に当事者として同行させることを第2中隊長が認めたので移動する車内で質疑応答すればよい。そこでロシア軍の捕虜からの事情聴取に移った。
「指揮官はエロモスキー大佐だったと聞いているが誰に殺害されたのか心当たりはないか」森田予備2曹との談笑とは違い捕虜への尋問は単刀直入になった。私も日常会話程度のロシア語は理解するので梢の通訳を介さない分、使う単語が初歩になることも理由だ。
「ニエート(いいえ)、我々は日本の憲兵隊には『大佐は自決した』と証言しています。我がロシア軍では帝政の時代から降伏は国家に対する反逆と見做されますから大佐も死を選ばざるを得なかったのでしょう」「それは私も戦史で知っている。日露戦争の時、陸軍のクロパトキン大将は日本陸軍をはるかに凌駕する戦力を有しながら消極的な指揮で退却を繰り返して地上戦での勝利を獲得できなかったが、奉天会戦での敗戦責任だけを問われて降格されている。海軍のバルチック艦隊を率いて大遠洋航海を達成したロジェストベンスキー中将も日本海海戦の敗戦責任を問われて少将に降格された。ところが旅順要塞で散々に乃木愚将を苦しめたステッセリ中将は降伏した罪で死刑判決を受けた。同じくロジェストベンスキー中将から指揮権を移譲されたネボガトフ少将も降伏した罪で死刑だ。勿論、2人ともすぐに減刑されているが、旅順要塞はペストが蔓延していてバルチック艦隊も壊滅状態、どちらも降伏以外の選択はなかったが死刑判決を下している。ロシア軍は戦前の日本軍以上の過酷な軍規を課せられているんだね」流石にここまで難しいロシア語は手に負えないので梢が通訳した。すると梢より20歳は若いドアノフ大尉は妙に嬉しそうな顔で聞き入っていた。それを見て私の胸にロシア軍の捕虜収容所で兵士たちに凌辱されて死んでしまったキャビンアテンダントの小森希恵と人妻の麻野望美の顔がよぎった。ロシア軍の野獣のような性欲は我が愛妻も対象にするのではないか。
「私はモリヤ検事、モリヤ中佐の名前を聞いたことがあります」梢の説明を聞いたドアノフ大尉は敵意を感じさせる目で私を見ながら話し始めた。ロシア軍の士官が私を知っているとすれば搭乗していたKLMオランダ航空機が基地名は特定できていない極東軍管区零下の空軍基地に強制着陸させられて捕虜として拘束されていた許し難い経験しか浮かばない。それは先ほど胸で発火した怒りに油を注ぐようなものだ。25
「モリヤ中佐はウクライナでの戦争犯罪裁判で特任検事を務めていたでしょう。ロシア軍の住民虐殺を第2次世界大戦末期にソビエト連邦軍がベルリンや満州、樺太で犯した戦争犯罪の再犯だって断罪して検事弁論としては採用されなくても公判の流れをかなり不利な方向に陥らせた。ロシア軍内ではモリヤ中佐はICC(国際刑事裁判所)の検察官でありながら東京裁判を否定しているって非難する声が上がっていました」私の予想は外れていた。確かに同じ極東軍管区でも樺太の地上部隊の現場指揮官だったドアノフ大尉が防空軍が実施した謀略を知らなくても不思議はない。むしろ同じ地上部隊としてウクライナ侵攻に伴って一般裁判所で開廷されたロシア軍の戦争犯罪を裁く公判を日本人の飛び入り検察官が掻き回している話題の方が軍内の公用電話で広大なロシア領土の東西を飛び交いそうだ。
「よく知ってるね。私はロシア軍が上陸すれば北海道や新潟でも同じような戦争犯罪が繰り返されることを危惧していたが、どちらも住民の避難が完了していたから助かった。その分、ロシア軍は地獄を見たようだが」「気候温暖なヨーロッパの住人が世界中に押しつけている人道主義を守っていてはシベリアの冬を生き抜くことはできません。家畜や獲物が手に入らなくなれば食べられる物は迷わず口にするしかない。日本軍がそんな悲惨な状況に我々を追い込んだんです」ドアノフ大尉は私の糾弾に反論するように言い訳を始めた。私自身も現在の戦争法を含む国際法がヨーロッパのキリスト教文明圏を前提に制定されていて世界各地で多くの齟齬を生じていることは自覚している。とは言え常任理事国として戦争法や国際条約の制定に協力して調印・批准していたソビエト連邦時代とは違い現在のロシアが現在は気にらなければあからさまに背を向け、多くの戦争法と国際条約に加盟せずに効力を喪失させている現状には歯噛みする思いだ。
「ロシア軍がロシア兵を食べようが戦争法では処罰対象ではない。日本の国内法では刑法第190条の死体損壊等に該当するが、ロシアでは生命を維持するために必要なら許されると言う論理が成立するようだ」ドアノフ大尉はそのような事態に追い込んだ自衛隊を断罪したいようだが私が乗らなかった。自衛隊が早い段階から降伏を呼びかけていたことは記録に残っており、応じなかったのはロシア側の特殊事情だ。ソビエト連邦軍=ロシア軍は第2次世界大戦における対ナチス・ドイツ戦でも開戦当初に包囲された地区はどれほどの窮状に追い込まれても降伏しなかった。その意味で日露両軍は将兵の人命を軽視している残虐性において双璧なのかも知れない。それでも流石のソビエト連邦軍も特別攻撃隊は出撃させていない。
  1. 2023/07/24(月) 14:43:48|
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