3日目からは稚内、遠軽、網走と戦場巡りになる。私の場合、検事としての現地調査と並行して戦死者の慰霊も目的にしているので巡礼の旅になるかも知れない。ところが服装は梢が用意した航空自衛隊の旧式の作業服に変わった。Ⅰ型糖尿病を患っているおかげで否応なしにカロリー制限と運動が課せられている私は20歳で一般空曹候補学生に入隊した時の体型を維持している。この作業服は防府南基地に赴任して新入隊員たちに制服や作業服を貸与した時、一緒に更新してもらったものだ。2年後に陸上自衛隊の幹部候補生学校に入校した時に返納しようとすると補給係が「古着はいらないから記念にとっておけ」と断ったため手元に残っている。作業服の更新は20カ月以降なので期限を過ぎた古着ではあった。
「両襟に秋霜烈日を付けてると曹候バッチみたいだな」「そう思って付けたんだよ」私が旭川駐屯地の宿舎で着替えて食堂に向かう途中の廊下の鏡で自分の姿を眺めながらぼやくと梢が自慢そうに答えた。秋霜烈日とは赤い円から上下左右に3筋の白線、その間に少し短い3筋の金線が伸びている検察官徽章の別称で、人間の罪を問う検察官の職務は晩秋の霜が降った朝のように冷厳で事実の究明には真夏の日差しのように熱くなければならないと言う精神性を表現しているとされているが、実際は日の丸から菊の花弁と葉が開いている形を採用したらしい。一方、両襟に付けていた曹候バッジは銀色の桜だったので遠目で見れば梢が大好きだった「モリヤ曹候生」を思い出してしまう。実は曹候バッジは金属製のためジェット・エンジンが吸入すると爆発を起こす恐れがあり航空機整備員には装着させなかった。先輩たちも「曹候苛めから逃れられる」と応じていたが私は止め金具をコンパウンド(固定剤)で固めてまで装着を続け、その分、苛めの集中攻撃に遭った。
結局、第2師団管区内の現地確認は警務隊長が立ち会うことになり、移動手段は運転手付きの警務車両になった。今回は江団別の捕虜収容所で森田予備2曹を拾ったので助手席を譲った警務隊長が後席になり、私が真ん中に坐った。パジェロとは言え3人掛けにはやや狭い。
「それは航空の作業服ですね。昔、親父が着ていました」森田予備2曹は校舎の正面玄関の前で私を見た時から妙に嬉しそうな顔をしていた。航空自衛隊が何時から変な迷彩服に変わったのかは知らないが、森田予備2曹が陸上自衛隊に入隊した頃にはまだ灰色の作業服だったのかも知れない。
「懐かしいだろう。ワシも着るのは30年ぶりだよ」私の返事を聞いて梢が嬉しそうにうなずいた。若い頃、梢は旅行社が年中無休だったため土曜と日曜日のどちらかが休みだった。土曜日が休みの場合、洗濯をすませてからアパートに行くと会っている時間が短くなるからと汚れ物を持って来させて一緒に洗うようになった。そうして旅行社の制服と航空自衛隊の作業服がベランダに並んで干されるようになり、デートから帰ると私に習ってアイロンがけまで頑張るようになった(自衛隊の作業服のアイロンがけは信じがたいほど重労働だ)。私たちはそんな懐かしい日々を思い出して後席で手を握った。
旭川から国道40号線を北上して約240キロ走ると稚内市内に入る。普通であれば自衛隊の車両以外に通行はなく、市民に目撃されることもない交通事情であれば多少の速度超過は常識だが、警務官の運転手は頑なに道路交通法を履行していたため所要時間は制限速度で計算した通りに4時間弱だった。
「ここが第1現場です」稚内市内でも国道40号線よりも東側を原野のような土地を南北に抜ける道路で運転手は警務務車両を止めた。やはり森田予備2曹は座席で背もたれから身を起こして凍りついたように前を注視している。私も頭の中で窓から見える風景を市ヶ谷や旭川で見た現場写真と重ねる作業を始めた。
「この位置は森田予備2曹が工作員の車両を停止させようとした場所です」「つまり緊急避難を行使した場所ではないんだな」ここでは運転手が前を向いたまま説明した。この口ぶりでは現場検証を担当したのだろう。私としてはここまでの会話で森田予備2曹が任務として敵である工作員を殺害したことは割り切られても死霊を家族の下に連れ帰ることを恐れていることを知った。これは意外な話だが帰還した兵士が殺した相手に復讐される悪夢にうなされ、その強迫観念から逃れるため戦場パニックの対処剤として軍が使用していた薬物を常用するようになって中毒に陥ったPTSD(心的外傷後ストレス障害)の症例は洋の東西を問わない。日本では帝国陸軍は精神主義で兵士を戦闘に駆り立てていたと思われているが実際は覚醒剤を投与していて、その常習性と在庫の流出が重なって敗戦後のヒロポンの蔓延を発生させた。それはベトナム戦争後のアメリカが苦しんだLSD中毒も同様だ。だから私はあえて罪の意識を与える「殺害」と言う言葉を使うことは避けた。
「それでは車両が停車した位置に移動します。森田予備2曹も徒歩で追跡して内部の様子を窺いました」「それで後席の人間が運転手と話してる堀井2曹にライフルを構えたのを目撃したんです。だから引き金を引きました」「立派だ。躊躇していては間に合わなかっただろう」私は森田予備2曹の行為に検事と坊主の両方の立場で賛辞を与えた。そして車を下りると死ぬべくして死んだ工作員の魂魄に読経してから因果応報の引導を渡した。
- 2023/07/25(火) 15:25:34|
- 夜の連続小説9
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