盧溝橋事件から3週間後の昭和12(1937)年の明日7月29日に21世紀に入ってからもチベットや新疆ウィグル自治区で共産党中国が続けている残虐な大量殺害を現在の北京市通州区にあった日本人居留地で行った通州事件が始まりました。
盧溝橋事件は同年7月7日に北京市郊外を流れる永常河に架かる盧溝橋付近で演習を実施していた日本陸軍に何者か(=日本軍と国民党軍の紛争を画策する共産党の工作員とする説が有力)が実弾を発砲したことを発端として始まった武力衝突ですが、現地軍とは別に両国政府は戦線不拡大で一致していたため早急に停戦が成立しました。
一方、関東軍は事件以前から画策していた華北分離工作(河北省、察哈爾省、綏遠省、山西省、山東省の華北五省を国民党支配から離脱させる)で日本人居留地がある通州に自治政府を設立して治安維持を名目とする保安隊の編成と教育訓練に着手していました。しかし、急ごしらえの保安隊は満州軍閥の東北軍が主体とされていても実態は共産党の反日工作員や武装盗賊の匪賊が多数紛れ込んでいて関東軍が目論んでいたような国民党軍に対抗する中国人による新たな軍隊にはなり得ませんでした。
実際、義和団事件以降は7月10日に将校斥候に擲弾筒が発射され、13日に軍用トラックが爆破されて4名が戦死、7月16日には日本軍と保安隊の反乱兵の間で銃・砲撃戦が発生し、それからは武力衝突が続発・激化したため関東軍は盧溝橋事件の時点で1個小隊45名と憲兵7名だった通州駐留部隊を増強することにしたのです。しかし、この増強部隊は別の地域の争乱に派遣されて通州には110名程度しか残っていませんでした。
ところが7月27日に保安隊の反乱兵を攻撃した日本軍機が保安隊の宿営地を誤爆したことを受けて国民党政府が扇動報道を流したため反乱兵が特定できていなかったにも関わらず通州駐留部隊の監督下に置くことが決定され、保安隊の全部隊が通州地区に入城すると城門は閉鎖されました。この時点で日本軍は保安隊を友軍と認識していたようです。
そうして深夜午前2時頃、保安隊の反乱兵(事実上は大多数)が行動を開始して日本軍駐留部隊の宿営地と特務機関を手始めに自治政府、日本領事館と警察を襲撃して手当たり次第に殺傷すると日本人と半島人385名が暮らす居住地区に乱入すると一軒一軒手分けして襲撃して略奪、強姦、殺害、暴行を繰り広げ、223名を死亡させました。この時、動哨などで難を逃れていた日本兵が執拗に抵抗したため加害者が約3000名と大規模だったにも関わらず150名余を生存させ、惨劇の実像を証言させることができました。
ただし、中国を取材していたアメリカ人ジャーナリストが「友人の警護者のフリをしていた支那兵による通州の日本人男女、子供等の虐殺は古代から現代までを見渡しても最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう」と述べているほどの惨劇であり、犠牲者のうち約30名は遺骸の損傷が酷く身元どころか男女の性別も判定できませんでしたが、その一方でスターリン書記長の密命で日本軍と国民党軍の全面戦争を策謀していた朝日新聞が主導する新聞各紙は女性の凌辱や残酷な拷問を過度に強調した報道を展開して日本人の国民党に対する敵意を扇動するのに最大限利用しました。
- 2023/07/28(金) 13:47:14|
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