1898年の7月30日にオーストリア帝国の一部に過ぎず、大陸国家であるが故に海軍力の増強と海洋進出に出遅れて海外植民地の争奪戦から除外された三流国家だったプロイセン王国をドイツ連邦(オーストリア帝国を除く北部のドイツ民族の国家連邦)の盟主の座につけ、19世紀のヨーロッパを影で牛耳ったオットー・エドゥアルト・レオポルト・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン宰相の命日です。83歳でした。
ビスマルク宰相は1815年にプロイセン王国東部のシェーンハウゼンで地主貴族(血統や武勲ではなく資産で身分を得た貴族)の息子として生まれました。地主貴族なので軍人よりも官僚を目指してゲッティンゲン大学やベルリン大学の法学部を卒業して官僚試験に合格しましたが役人暮らしに馴染めず間もなく退職して実家で地主貴族の仕事に従事しました。
1847年に身分制議会=貴族院の代議士になると強硬保守派の指導者として1848年にドイツ各地で頻発した自由主義とナショナリズムの革命運動を批判しましたが、1849年に設立された下院=衆議院の議員にも当選しています。それでも国王の信任を獲得して革命運動で成立した自由主義政権に対抗する王室内の影の内閣に参加しました。
1951年には旧ドイツ連邦のプロイセン全権公使に就任しましたが、ドイツ民族の盟主であるオーストリア帝国の旧態依然・骨董品化した実態を目の当たりにしたことで北部のドイツ民族の国家のみによる小ドイツ連邦の独立を模索するようになり、ナポレオン3世のフランスとの連携など反オーストリア的外交姿勢を公然化させました。これは次に駐ロシア公使として赴任した時、クリミア戦争で敵対したオーストリアを憎悪する宮廷内で大歓迎を受けることに役立ちました。
プロイセン国内では自由主義政権が権勢を強める一方で、そんな1861年に即位したヴィルヘルム1世が小ドイツ連邦内での支配権を獲得するために命じた軍備の強化予算を衆議院が否決するとビスマルクさんを首相に指名し、1862年9月30日に衆議院予算委員会で熱弁を奮ったのが代名詞「鉄血宰相」の由来になっている「ドイツ(連邦)が注目しているのはプロイセンの自由主義ではなく力である。(中略)現下の大問題の解決は演説や多数決ではなく鉄(=軍事力)と血(=戦争)によって為されるのだ」と言う演説です。しかし、議会の支持を得ることはできずビスマルク内閣は国家予算なしで軍制改革を断行し、1864年にドイツ連邦の加盟国2国がデンマークに併合されるのを阻止した戦争とこの2国の帰属を巡るオーストリア帝国との対立、それに続く1866年の短期戦で勝利したことでプロイセンを中核とする小ドイツ連邦の統一と独立を実現しました。
その後も1870年から1871年のフランスとの戦争にドイツ連合軍として勝利したことでヴィルヘルム1世を統一ドイツ皇帝に即位させる一方でヨーロッパ圏内の国家の対立と仲介を巧妙に画策することで存在感を増し、第1次世界大戦まで戦争が発生しない奇跡を起こしています。中でもアフリカの植民地を巡るイギリスとフランスの対立を巧妙に利用しながらドイツ自身の野心を見せることなく軍隊を派遣せずに自国民が入植したアフリカや南太平洋諸島を領土=植民地に加えています。
ビスマルク宰相は明治4(1871)年に欧米を訪問した岩倉使節団と面談した時、「ドイツも今の日本と同じ三流国家だった。それが今ではヨーロッパの列強に伍している。日本の将来に期待している」と述べて感銘を与え、絶大な崇敬を集めるようになりました。惜しむらくは皇帝の交代で信任を失ったことですが、色々調べてみても清濁併せ吞む度量と徹底的な合理=功利主義、手八丁口八丁に足も出る卓越した政治的手腕は「史上最高の政治家」と評価しても良いでしょう。
- 2023/07/29(土) 13:02:08|
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