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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

太陰暦の7月晦日=末日・妖怪・不知火が現れる日

現代の太陽暦では9月中旬(まれに8月中)に当たりますが月齢が新月(=真っ暗)になる太陰暦の7月の晦日(みそか)から8月の朔日(ついたち)の夜に有明海から八代海の沖の水平線上に炎のような光が並ぶ不知火(しらぬい)が現れます。
不知火は奈良時代に編纂された日本書紀にも日本武尊の父の12代・景行天皇が九州の熊襲(熊本県と鹿児島県の県境の球磨と曽於の地名の由来とする説もある)を攻撃した時、海上で漆黒の闇に包まれて位置と進路が判らなくなると突然、海面に並んだ光が現れ、それを頼りに船を進ませて無事に海岸に到着できたので地元民に「何の炎か」「誰が燃やしているのか」を尋ねると「知らない」と答えたため「不知火」と名づけたと言う説話があります。
不知火は前述の7月の晦日と8月の朔日の雨が降っていない深夜午前3時の前後2時間頃に新月の漆黒の闇の中に始めは「親火」と呼ばれる炎が1つか2つ燃え上がり、それが左右に分かれて燃え広がり、最終的には数千もの光が4キロから8キロに渡って並ぶのです。ただし、船や飛行機では近づくことはできずどこまで追っても逃げるように距離を保つそうですが、海面ではなく10メートルほど浮いた空中で燃えているようです。
大正時代になると怪奇現象を科学の論理で否定する現代の学者と同様に江戸時代までは信仰の対象だったこの超常現象を科学的に解明しようとする愚か者が現れ、先ず熊本高等工業学校の教授が「不知火の光源は漁火であり、太陰暦の8月の朔日頃には大潮で沖に干潟ができるため冷風と干潮の温風が入り混じって大気が不安定になり異常屈折現象を発生させるのと漁火が激しく揺らめくのを無学な迷信を信じる人々が妖火と思い込むのだ」と言う説を提唱しました。
次に熊本帝国大学の学者が「不知火は気温が異なる大小の複雑な空気魁の中を通り抜けてくる光が屈折を繰り返して発生する蜃気楼や陽炎などと同類の光学現象」として「光源は民家などの灯火や漁火」としました(当時は干拓されておらず対岸に街並みは存在しなかった)。
ところが昭和になって気象学者が著書の中で「不知火の原因は判っていない」とこれまでの学説を否定する一方で夜光虫を光源としながら観光客目当ての誇大宣伝を疑う推理を記述しました。
一方、素人ながら野僧が光源を漁火とする学説に疑問を感じるのは江戸時代まで有明海や八代海の漁民たちは不知火を千灯篭(せんとうろう)や竜火(りゅうとう)と呼んで神聖視していて出現する7月の晦日と8月の朔日は殺生を避けて漁には出なかったとされているので海上に漁火が存在するはずがないのです。これは有明海や八代海の不知火に限らず全国の漁村(愛知県蒲郡市を含む)では太陰暦の7月15日の盂蘭盆会の3日間は殺生を避けて禁漁にしていてこの掟を破った者は沖で舟幽霊に遭って海中に引き込まれて命を落とすとされていました。これは沖縄でも糸満や先島・八重山の海衆(ウミンチュウ=漁師)から聞いたことがあります。
明治以降に西洋的科学万能主義に染まった学者たちは「板子一枚下地獄」の危険と隣り合わせの海で働く人たちの素朴でも真摯な信仰心を理解することなく沖で異常屈折現象や光学現象によって不知火を発生させる光源を推理すれば即座に漁火と言う結論に至ったのでしょう。しかし、それは机上の論理で実際に現場で実態を調査したとは思えません。
残念ながら現在は対岸が干拓されて街並みが造成され、灯火が溢れているので新月でも漆黒の闇にはならず不知火の発生頻度はかなり落ちているようです。最近撮影された不知火の写真も対岸の夜景かも知れません(真夜中の撮影時間から言えばここまで灯火は点いていないとは思いますが)。
不知火最近の不知火
  1. 2023/07/30(日) 13:59:28|
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