fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

8月1日・モンゴル帝国へ派遣されたカルピニ修道士の命日

1252年の明日8月1日は東欧にまで迫っていたモンゴル帝国に派遣されて現在の首都・ウランバートルの西230キロに位置する当時の首都・カラコルムに赴き、その内情を詳細に報告した隠密使・ヨハン・ネス・デ・プラノ・カルピニ修道士の命日です。71歳でした。
カルピニ修道士は1182年にイタリア半島中央部のペルージャに近いマジョーネのヴィラ・ピアン・デイ・カルピネで生まれたと言われ、聖職者としてはイタリアのフランシスコ会に所属しました。フランスコ会は粗衣粗食の清貧を貫き、教会はおろか住居も持たず、手仕事の収入以外は喜捨で生活していたため托鉢修道会、乞食修道会と呼ばれています。その苦難を法悦とする宗風を利用したヴァチカンの命令で十字軍に便乗してバルト海沿岸の土着民族の宗教を弾圧した神聖ローマ帝国や11世紀半ばまでイスラム教に支配されていたリヴェリア半島で布教したことで教団内の知名度を上げ、管区長に登用されるようになりました。
そんな中、中央アジアからロシアを制服したモンゴル帝国が1241年のワールシュタットの戦いでドイツ・ポーランドの連合軍を敗って神聖ローマ帝国内に足を踏み入れると皇帝とヴァチカンの教皇の関係が険悪になり、皇帝が軍を派遣してヴァチカンを包囲したことから1245年に第1リヨン会議が招集されてモンゴルに交渉使節(実際は情報収集が目的の隠密使)を派遣することが決定し、カルピニ修道士とボヘミアのフランシスコ会の修道士の2名(途中でポーランドのフライスコ会の1名が加わった)が任命されました。
3名は当初、カスピ海の北東のサライに駐留し、都を築いていた欧州派遣軍のパトウ司令官と面会しましたが、そこでモンゴル2代皇帝のグユク・ハンの元へ行くように命じられたためそのまま中央アジアを横断してカラコルムに赴きました。カラコルムでは折からグユク・ハンの即位式が行われ、カルピニ修道士たちはヴァチカンの教皇の名代としてイスラム圏の代表団と共に出席して、その後に国書を手渡して交渉を行いました。しかし、第1の要求だったカソリックへの帰依は敬虔なチベット佛教国のモンゴルが応じるはずがなく、第2の要求の和睦もグユク・ハンが全ヨーロッパの支配を明言したため断念して本来の任務である現地情報の収集に本腰を入れました。
その成果はパトウ司令官の面会後にヴァチカンに書簡で送った報告で人物像を「部下への思いやりにあふれる偉大なる賢君」と評価した一方で戦闘時の残虐性と交渉の対応から抜け目のない狡猾な面も見逃さず、さらに都の建設に動員している現地人の処遇を見分して「名君だが暴君でもある」と客観的に分析しているように帰国後のヴァチカンへの報告で詳細に記されています。
ところが教皇が要求の断念を「失敗」と考えたため使節団の長だったカルピニ修道士は冷遇されるようになりましたが、後年、刊行した著書「われらがタルタル人と呼びたるところのモンゴルの歴史」の記述を客観的に分析するとモンゴル側も使節団を正式な国交交渉の相手として礼節を尽くして処遇していて4代皇帝・モンケ・ハンの時代にフランスのフランシスコ会に派遣された修道士とは扱いが違ったようです。結局、ヴァチカンも圧倒的なモンゴルの軍事力を前に為す術がなかった立場を自覚したようで何の知識もなかったモンゴルに関する風習や国民性、軍事力や政治制度などの詳細な情報を獲得しただけでも十分な成果として大司教に任命しました。
要するに尊皇攘夷の狂気に浮かされて圧倒的な軍事力を背景に開国を迫る欧米の列強に万国公法に基づく国際法慣習に則った外交交渉で国家としての威信を保った徳川幕府の業績を逆に討幕の口実にした薩長土肥の明治政府と同じ過ちを犯しながらもこちらは訂正したようです。
  1. 2023/07/31(月) 14:32:40|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<続・振り向けばイエスタディ564 | ホーム | 続・振り向けばイエスタディ563>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/8583-d0e9dca7
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)