網走市は第2師団と第5旅団の境界線だが約90キロある遠軽駐屯地よりも内陸に約30キロの美幌駐屯地の方が近かった。第119地区警務隊長の増田2佐が第25普通科連隊3科の運用訓練幕僚に時間一杯まで案内させたのも所要時間が判っていたからだろう。ただし、我々は国旗降下の前に到着して駐屯地司令の第6即応起動連隊長に挨拶をすませたが運用訓練幕僚が遠軽駐屯地に帰隊するのは日没後になるかも知れない。
「モリヤ検事、こちらが帯広の第121地区警務隊長の伊倉2佐です」「伊倉です」「モリヤです。こちらは妻の梢ですが今回は秘書兼通訳として同行させています」伊倉2佐も警務官の運転手を同行させているので宿泊者は私たち夫婦と幹部2名と陸曹2名になり、私と梢は当直室サイズの小部屋、両警務隊長と陸曹2名は一般用の外来2部屋に分かれて就寝することになった。ところが第6即応起動連隊の戦況説明は明日の予定なので夕食とシャワーを終えると本部庁舎の警務美幌派遣隊事務室での座談会になった。参加者は私と梢に両隊長と両運転手、それに美幌派遣隊の警務幹部の2尉と陸曹1名だ。
「奥さんも酒、いっしょ」「駐屯地の中で良いんですか」「隊員クラブの経営者と従業員も避難させましたから営業停止になっていて慰問で届く酒を営内班で飲むことは許可されています」警務派遣隊の陸曹が仮眠ベッドを兼ねた4人掛けの長椅子を含むソファーセットと事務机の椅子で車座になった出席者に湯呑を配ると2尉が北海道は旭川の銘酒・男山を注ぎながら梢に声をかけた。ところがこの説明は幾つかの点で破綻している。先ずここは職場である警務派遣隊の事務室であって生活空間の営内班ではない。次にこの男山は旭川から来た増田2佐の土産で官給の慰問品ではない(男山は本来、京都の岩清水八幡宮に由来する銘柄で剣菱と同じく灘の酒だ)。何よりも全員が酒を飲んでしまえば不測事態に対処する警務官がいなくなってしまう。それでも第121地区警務隊長は「酒は剣菱男山」と呟きながら注がせているので部外者が余計なことを言うのは控えた。
「それでは我が自衛隊警務隊の名を国際司法界に轟かせてくれたモリヤ検事と奥さんを歓迎する・・・ついでに遠路はるばる第121地区警務隊の縄張りまで足を運んでくれた我が友・増っさんと専属ドライバーの中村2曹の労をねぎらって乾杯します。乾杯」「乾杯」伊倉2佐の外見は茫洋とした風貌の増田2佐とは反対に眼鏡の奥の眼光が鋭く、相手の腹の底まで見透かすような警務官よりも憲兵と言う雰囲気だが、この乾杯の音頭を聞く限り陰湿な性格ではなさそうだ。
「それにしても奥さんを戦場の調査に連れて回っても大丈夫なんですか」「残酷な写真を見せられてPTSDになる惧れもありますよ」辛口の男山を梢が小刻みに口にしているのを第121地区警務隊の男たちは興味深そうに見ていたが、一杯目が空になったところで警務隊式の事情聴取が始まった。勿論、訊く相手は私だ。
「妻は内戦後のスリランカやタリバーンが政権を奪い返す直前のアフガニスタンの現地調査に同行していますから戦場の生々しい惨状には慣れているんです。それだけでなく私が持ち帰った世界各地の紛争地帯の現場写真の英文の解説を執筆していますから多少の免疫は備わっています」「幼い頃から学校で沖縄戦の壮絶な戦場写真を見せられてきたから頭の一部が麻痺しているのかも知れません」「それはお見逸れしました」梢の自嘲気味な補足説明に警務官たちは曖昧にうなずいた。この様子では沖縄勤務の経験者はいないようだ。
「ところでこの機会にモリヤ検事の見解を聞いておきたいのですが」「まだ酒は口の潤滑剤、頭は円滑に動いている程度でしょう」唐突に私たちの前の4人掛けの長椅子の中央に並んでいる両警務隊長が真顔で話を切り出した。同時に参加者たちが一斉に姿勢を正したところを見ると両警務隊が共有している懸案らしい。
「実は2師団と5旅団では捕獲したロシア兵の処遇が喰い違っていまして札幌の地方検察庁は統一見解を出して同一の罪で告発するようにと我々に下駄を預けたまま放置しているんです」「それは東京の最高検察庁や警務隊本部でも読んでいます。2師団は捕虜としてジュネーブ条約に基づく処遇を与えていて、5旅団は不法入国、住居や私有地への不法侵入と破壊、武器の不法に所持し使用した罪などの刑法犯として身柄を拘束している・・・と言うんですね」私の確認に今度は全員が一斉にうなずいた。
- 2023/08/02(水) 15:06:24|
- 夜の連続小説9
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